巻頭言
2008年3月


2008年3月2日

「コントロール」

牧師 犬塚 契

へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で した。              フィリピの信徒への手紙 2:8

コントロール【control】[名] 1ちょうどよいぐあいに調節・統制 すること。管理。2球技で、ボールを自分の思うところに投げたり 蹴ったりすることができる能力。…他▲スポーツではないから、ど ちらかと言うと1である。けれども、そんな「ちょうよいぐあいに …」を超えて、「思い入れ」が強いほど、人をコントロールしよう とする欲求は強くなるように感じることが多くなった。「正しい」 と思われる時はなおさらだ。「思い入れ」「正しさ」がいつの間に か、人に服従を迫ることへ変化していくことがある。動機は、不純 なものではなかったとしても、人が呼応しない寂しさ故か、末路を 案ずる故か、不安が不満へと変わり、怒りとなる。そして、振り返 って聖書の神の方法に驚くのである。▲神が求められるのは、服従 ではなく、愛である。服従ならば世の為政者が試し、試している無 数の方法がある。しかし、時間と手間と忍耐と労力と涙と……のか かる十字架の方法を神は選ばれた。そこにただ驚くのである。破壊 する方法ではなく、あくまでも内から変化していくという方法を取 られたのである。▲救いのために神は3つの屈辱を受けられたと呼 んだ。「受肉」と「十字架」、そして「教会」であると。歴史の中 で教会が愛ではなく、服従を求めたために失敗をしてきたことかと 思う。そして、変わらず今もその誘惑の中にある。正しくても(残 念ながら)人は操作できない。神がそれを望まれず、そうされなか った。ただ十字架の死に至るまで愛を示されたイエスキリスト姿が 私たちの前にある。



2008年3月9日

「 神からの平安を求めて 」

牧師 犬塚 修

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたが たに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異な る。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。ヨハネ14:27

先日、「ギリシアの海運王」オナシスの一生を描いた映画をテレビ で観る機会がありました。その一生は華麗そのもので、名声、栄光 、富に彩られ、燦然と輝くものでした。しかし、鑑賞したあと、私 の胸に迫ったものはオナシスの絶望感、空虚感、孤独の深さでした 。それは彼の歩みが隣人に「大切なものを与える」よりも、「奪い 取る」面が強かったように感じられたからかもしれません。ある晩 、彼は空しさにかられ、酔っ払って、美しい皿を何十枚も石段に投 げつけて、割りながら「人生は夢のよう、ただ空しいのだ、楽しめ 」と口ずさみます。彼は確かに自分の思い通りに生きた人でした。 「金で買えないものは何もない」と豪語するほど、財テクの面では 、特異な才能の持ち主でした。彼はある日、息子に成功する商売の 秘訣を伝授して「お前が相手する者がいくらの人間であるかを知れ 」と教えます。「いくらの人間」とは、相手の価値を能力の高さや 利用価値で計る人間理解です。これによれば、相手が有能で役に立 つ者であれば、重用し、無益ならば捨てる結果となるでしょう。こ こには、神が創造された人間の無限の尊厳さ、存在への畏敬は感じ られず、人の行いや、能力で人を区別、差別しますので、優越感や 劣等感を生み出します。この価値観がオナシスの生き方をゆがんだ ものとした気がします。ダビでは「そのあなたが御心に留めてくだ さるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょ う。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を 造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ」(詩編8:5〜6)と 人を愛される神を讃美しています。私たちは神の目に「いくらの人 間」ではなく、「命の価値が無限に尊い人間」として生かされ、今 なお「神の愛の中に生き、動き、存在しています」。



2008年3月16日

受難週を迎えて

牧師 犬塚 修

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、 頭を垂れて息を引き取られた。 ヨハネ19:30

人生における“未達成感”が心を侵し始めると、絶望や無気力感に とらわれます。「あの日、自分はこうすれば良かった」「どうして あんなに無駄な事ばかりしたのか」「もしあの人がもう少し力を貸 してくれたならば、こんなに無駄な事はしなくてすんだのに」等、 不平やつぶやきを持つ事はやめたいものです。なぜなら、否定的感 情に支配されると、信仰は弱くなっていくからです。私たちが心し たい事は、私たちの罪のために苦しまれたイエス様を信じる事です 。主は激痛の十字架上で、最期に「成し遂げられた」と叫ばれまし た。即ち、主にとって、失敗の出来事にもすべて深い意味が加えら れ、未達成の事柄は何一つないと宣言されました。一見、無駄に見 える事に深い教訓が隠されています。それはボ-ルの球を水中深く押 し沈める行い動作に似ています。深く見えないほど沈める事はでき ますが、一瞬、手を離すと、勢いよく水面上に高く跳び上がります 。同様に、人生において体験した苦難や絶望、孤独、空しさが深け れば深いほどに、主によって、物事は最善の方向に向かって、跳び 上がるのです。神がそうされます。ゆえにパウロは「神を愛する者 たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益とな るように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ロマ 8:28)と大胆に書き記しました。主にあって達成感を持って、人生を 感謝し、受難週を厳粛かつ、敬虔な思いで過ごしましょう。



2008年3月23日

「さくらの日?」

牧師 犬塚 契

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否 、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に 座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。  ローマ人への手紙8:34

街のあちこちの桜並木の下を通る度に桜の木を見る。寒い時期を耐 えた桜の木は、時満ちて今にも開花しそうだ。もうすぐ一斉に咲い てくれる。星野富弘さんの詩の一部が頭に浮かんだ「むしゃむしゃ と食べてしまった」。…で調べた。
さくら
車椅子を押してもらって桜の木の下まで行く
友人が枝を曲げると私は満開の花の中に 埋ってしまった
湧き上がってくる感動を おさえることができず
私は口の周りに咲いていた桜の花を
むしゃむしゃと食べてしまった
 桜の木の前、美しさ故か迫力故か、ある人は強くなり、ある人は 弱くなる。イースターという言葉の語源が聖書から来たものでなく 、異教文化の中で作られたことから、これを変えて「さくらの日」 にしたらどうかという先生がいた。このイースターの時期に一斉に 咲く桜は、まさに聖徒たちが、時が来て復活することを思い出させ てくれはしないかと。そう聞いてから、桜の花びらをみる度にたく さんの殉教者と出会った人々を思い起こす。今日はイースター。



2008年3月30日

「強いる」

牧師 犬塚 修

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベ トサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 」(マルコ6:45) 

“強いて”とは意味の深い言葉です。イエス様は強いて弟子達を 舟に乗せられました。彼らにとってこの事は心地良いものではなく 、不愉快な命令であったでしょう。人は誰も、反射的に不快なこと を避けたいものです。だが、彼らの従順な行いがすばらしい結果を 生むことになります。私たちが深い恵みを得るためには、通らねば ならない狭い門があります。だがその門には豊かな恵みと宝が隠さ れています。従って、意味不明な出来事も不可解も受け入れたいも のです。弟子達は必死で荒々しい風と戦いました。真の力はギリギ リの限界状況下で発揮されるようです。「火事場の馬鹿力」は面白 い表現です。いざという時に、今まで眠っていた内なる能力が発揮 されます。主は強いて愛する者を限界状況に追いやられます。その 苦しい場面で、私たちは神と出会うことができます。厳しい戦いの 中で、生ける神を体験するというすばらしい出来事が起こります。 一心に主に叫び求めるならば、私たちは新しい段階に引き上げられ ます。そして祝福があふれます。ゆえに非常に不快かつ苦い味もま た、味わって生きたいものです。「快楽を愛する者は欠乏に陥り、 酒と香油を愛する者は富むことがない」(箴言27:21)





TOP