巻頭言
2007年3月


2007年3月4日

「礼拝と献身」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」 と言われた。マタイ4:19

「私について来なさい」は原語では「さぁ、私の後ろへ(来なさい )」という意味です。この「さぁ!」という呼びかけにハッとさせ られます。「今朝は体がだるくて動きたくない」と思いますと、行 動は遅くなります。そのような時に、イエス様のこの呼びかけを思 い起こしますと、新たな力が湧いて起き上がることができます。ま た、自分がどうしてもなすべき業が会った場合、心が落ち込んでい ると、それを実行する意欲や気力が沸いてこない時もあります。そ して、「もう、やめよう」と消極的な思いになったり、また今後に 起こることを悪いようにばかり解釈してしまい、過度に恐れたり、 臆したりいやすいものです。しかし、それでは、充実した感謝の人 生を過ごすことはできません。聖書に「あなたに与えられている神 の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの 霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったので す」(Uテモテ1:6〜7)とあります。自分の肉の弱さに敗北し、楽 だけを求めたり、自分を甘やかすと、人生は暗転し、絶えざる敗北 感に悩むようになります。いかに辛くてもしなければならない事は 実行せねばなりません。ゆえに辛い時こそ「さぁ!」と宣言しまし ょう。自力で戦うのではなく、イエス様の後ろに行くのです。主が 私たちに代わって戦って下さいます。「献身」はこの言葉によって 、次の一歩を勇気出すことから始まります。「強く、雄々しくあれ 」(ヨシュア1:6)



2007年3月11日

「キリストの体」

牧師 犬塚 契

だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。…あなたがた はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。…そこで 、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。…それゆえ、信仰と 、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いな るものは、愛である。 Tコリント 12:20〜13:13

パウロは教会を表現する言葉を捜しながら手紙を書いた。そして、 ようやくこれだ!という言葉を発見する。それは、「キリストの体」 だった。▲右手には切り傷があり、左肩は角度によって脱臼する。 頭には髪の毛の生えない部分が3箇所あり、胃の調子は大抵よくない 。最近、腰が痛いのでコルセットとホッカイロをセットして出かけ る。…で、私が「元気?」と聞かれたら、「元気です」と答える。 「体は大丈夫?」って聞かれたら「大丈夫!」って答える。体って 、多かれ少なかれどこか痛む部分があるものなのだろうと思う。パ ウロは目が悪かったといわれる。それを含めてパウロは「キリスト の体」と表現したのだろう。▲人それぞれ弱る時があり、痛む時が あり、病む時がある。体の部分が傷つく。それでも共に礼拝者とし て、同じ体を作り上げる。神様から呼び集められた人々が、教会を つくりあげる。そして、それを可能にするのは「愛」であるとパウ ロは続ける。ある牧師が説教台に立つ時「集う人々を愛させてくだ さい」と祈ってからみ言葉を語ると話してくれた。となりに座る方 々と一緒に礼拝すること、体をつくることを喜びとしていきたい。



2007年3月18日

「今日一日を生きる」

牧師 犬塚 修

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い 悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。 マタイ6:33〜34

もし私たちの心に「心配や思い煩い」が押し寄せるならば、生き方 はとても窮屈なもの、また悲しいものとなります。なぜ、このよう なマイナスの感情に支配されてしまうのでしょうか。その原因の一 つは、過去や将来について、悶々と考えすぎる点にあります。過去 は変えることも、未来を正しく予測することも誰もできません。そ れは神の領域なのです。ところが、私達はどうしても過去の失敗や 将来への不安によって、悲観的になってしまうことはないでしょう か。その結果、こころから生きる喜びが奪われ、絶えず、悲しみと 憂鬱に襲われてしまう毎日を過ごすことになるのです。神は私たち 人間を楽しみ、平和、愛、希望に生きるように創造されました。「 わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を 送ることだ、と」(コヘレト3:12)神は私たちを明日ではなく「今 日」という制限された短い時間の中で、生きるようにされました。 これはとても意味が深い事でした。すなわち、明日についてそんな に思い煩わないように配慮されたのです。ですから、私達は今日一 日を感謝して精一杯生きるだけで良いのです。昨日の失敗や明日の ことについて心配せず、今日一日支えられて生きる事です。その積 み重ねが大切です。明日については何も考えない事です。主がすべ ての時に守って下さいます。「今」を喜んで楽しく生きましょう「 今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(一コリント6:2)とあります。



2007年3月25日

「神を信じるということ」

牧師 犬塚 契

信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさ い。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・ キリストがあなたがたの内におられることが。Uコリント13:5

私達には神不在に思えるような出来事の中でも、神は確かにそこに おられる。十字架の出来事は、世の権力者の勝利だった。ヘロデ大 王は、幼少のイエス暗殺を失敗したが、ヘロデアンティパスとポン テオピラトとユダヤ社会の最高議会サンヘドリンは、イエス暗殺に 成功した。しかも、世界で最も残酷な方法で…。ローマの兵士たち は、「神の子なら、十字架から降りて見ろ」と迫り、奇跡を見せて みろと迫った。しかし、何も起きなかった。「神不在」…。しかし 、神はおられた。その十字架こそが神の救いの出発点だった。だか ら、私達は希望を抱く。教会の前を通り、十字架の前を過ぎる時に 希望を抱く。あの死刑の道具すら愛の証拠とする神であったのなら 、崩壊の中ですら新しい事をなそうとする神であったのなら、これ 以上ないほど弱りきった瞬間に強さを引き出す事ができる神なら、 神は私自身の人生における、明らかな失敗や困難、罪や過ちに何を してくれるのだろうと。もし、十字架すら愛の出来事と変える神な らば…もし、最も弱い時に最も強くある神ならば…もし、歴史上最 も忌まわしい出来事を、最も素晴らしい出来事に変える神ならば… 。教会にかけられている十字架はその事のしるし。残酷すぎて、世 界中のどこの国でもすでに使われない死刑の道具は、今も希望を指 し示している。私たちは、他の誰でもない、最悪のものを最善へと 変えることのできる神を信じている。十字架の前を通る時そのこと を思い出して行きたい。  





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