巻頭言
2006年3月


2006年3月5日

「オーラ」

牧師 犬塚 契

あなたの神殿に対する熱情が、わたしを食い尽くしているので・・・ 詩篇69:10
弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い 出した。 ヨハネによる福音書2章17節

スーパーマーケットでアルバイトしていた友人が言った言葉が、時々思い起こされる 。買い物かごを下げたお客さんが並ぶレジで、一つ一つの商品の値段を打ち込んでい るとなんだかお客さんからの「オーラ」を感じるらしい。「もっと早くできないのか しら」、「この人、仕事始めたばかりなの」と・・・。そして、対応も人間味を失い 、機械的になる。しかし、そんな一日の中で、フッとした瞬間がやってくる時がある という。子供が並んだ時であり、障碍を持った方が並んだ時だという。ペースがゆっ くりとなり、落ち着く瞬間となる。なんだか人心地を取り戻すのだと言う。スーパー やコンビニで並ぶ自分がどんな「オーラ」を出しているのだろうか、と反省をした。 ▲「一生懸命」とか「一所懸命」とか、どちらにせよ、尊いことだと覚えてきた。実 際、そうして生きている自分には自信が生まれるし、誇らしげにもなる。しかし、「 次、次、つぎっ、つぎっっっ」と一切のムダや寄り道を許さないような歩みへと駆り 立てられ、ゆとりが失われるのを見て、なんともバランスの崩しやすい自分を発見す るのである。▲下校時間に小学校近くを通った。低学年の男の子が家路についていた 。道路をジグザクに横断し、右の道路の土手に咲いた花を見て、左の道路のすみにい た虫を見て、ゆっくりと歩いていた。「あれじゃ、いつ家に着くかわからないな」と 思った。・・・が、なんとも豊かな下校だろう。▲春が近い。神の造られたセンスの いい被造物が芽を吹き出す。楽しみながら、感謝をもって歩みを進めたいと思う。み ちくさを人生の中にいっぱい取り入れながら。



2006年3月12日

神を待望する喜び

牧師 犬塚 修

「神に従う人は待ち望んで喜びを得る」   箴言10:28

いろいろと悲しい事柄が起こると、次第に心は弱くなり、生きる気力を失いかけます 。「これから、一体どう歩んだら良いのか…」と憂いの思いにとらわれてしまいます 。さて、私たちの目の前に二つの門が置かれています。一つの門は「悩みの門」です 。そこを入ると、底知れない虚無と悲哀、絶望と疲れが私たちを待っています。第二 は「喜びの門」です。この先には感謝と歓喜、希望と充実感があります。この門に入 るためには、イエス様に対する「信仰のかぎ」が不可欠です。「わたしは門である。 わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(ヨ ハネ10:9)とあります。イエス様は私たちの苦悩や嘆きのすべてを受けいれたのち、 主ご自身の中にあふれている慰めと祝福、また永遠の命を与えんとされているのです 。2000年前に、主の十字架の救いが完成しましたので、「悩みの門」は私たちと は無関係となったのです。主はご自身に従う人を見捨てられることはあり得ません。 「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づく り、完成した者」(イザヤ書43:7)とあります。主の義と愛の支配を静かに待ち望みま しょう。主は必ずあざやかな恵みの業を起こされますから。2006年度の年間聖句 は「力を捨てよ、知れ。わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」( 詩篇46:11)です。さあ、勇んで感謝と信仰の心を抱き喜びの門に入りましょう。



2006年3月19日

「二つの人間理解」

牧師 犬塚 契

聖書の人間理解は、二つの視点から成り立っている。一つは「人間は罪人」であり、 もう一つはそれでもなお「神の子」である。▲私にとっては、どちらのほうがなじみ 深いだろうか?心の内を見つめていると、前者のほうが身に迫るように思う。愛のな い批判を繰り返し、大事なところで後手にまわり、逃避と自己保全に身を費やし、本 当は自分のことしか考えていなかったことを知る。結局、エネルギーのベクトルは、 常に自分に向けられており、自己中心性から一歩も抜け出せずにいる「罪人」をみる 。聖書の人間理解の一つ目、「罪人」にうなずかずにおれない。しかし、もう一つ「 神の子」であるとはどういうわけか?▲「イエスが、罪の意識に苦しむ人を愛し助け た時、彼の中に過ちを犯している神の子供を見たのである。彼の中に、父なる神が愛 し、間違った道を歩んでいるために嘆き悲しんでいる人間を見た。彼を神がこうであ れと、もともとデザインしたように見たので、汚れや泥といった表層を通して、その 下にある本当の人間を見たのである。イエスはその人間を、罪を持った人間とは同一 視せず、むしろこの罪の中に、何か性質の違うもの、本当は彼に属していないもの、 単に彼を縛り支配しているだけのものを見た。そしてイエスは彼をそこから自由にし 、本当の自分に戻らせるのだ。イエスはまさに泥の層を通して彼らを愛したので、人 々を愛することができたのだ。」ヘルムート・ティーリケ▲「ありのままが素晴らし い」と昨今、言われつつ、それほど私たちの「ありのまま」は魅力でない。・・・と いうよりも、どれが「ありのまま」か、など難しくてわかりはしない。その定義は広 義に広がりすぎた。人が「これか、あれか」と考える時に、人が「これもだ、あれも だ」と受け入れようとする時に、ただ、神は罪に覆われた神の子の存在を思い出させ ようとする。



2006年3月26日

永遠に目を注いで

牧師 犬塚 修

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていく としても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一 時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれま す。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは 過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです. Uコリント4:16〜18

私たちが戦うべき本当の敵は、落胆しやすい自分自身の心である気がします。落胆せ ずにはおれない事柄が起こると、私たちはガッカリします。そして生きる力が失われ ていくのです。もし、私たちが目に見える事柄にとらわれ、霊的なことに心を向けな いならば、人生は不毛なものとなるでしょう。偶像とは「見えるもの」が語源です。 私たちはすばらしい成果、人目を驚かせる業績、成功などを賞賛しがちですが、最も 大切なものは「目に見えないもの」です。「見えないものは永遠に存続するからです 」。神の愛や真実は目に見えないかもしれませんが、確かに存在します。信仰とは、 見えないものを魂の目で見ることです。そこから賛美があふれ出します。「信仰とは 、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この 信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言 葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではな いことが分かるのです。」(ヘブライ11:1〜3)「外なる人」とは私たちの肉体であり、 また疲れやすい弱い心のことです。これらは年と共に衰えていきますが、信仰から誕 生した新しい心と復活に至る体は、いよいよ元気になっていきます。私たちの新しい 歩みが始まります。





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