巻頭言
2005年3月


2005年3月6日

「教育と明渡し」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支 え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。 詩篇55:23

「神に見捨てられたと感じることがあっても、その感情に左右されずに神を信 じ続ける時、あなたは最も深いレベルで礼拝しているのです」(人生を導く5 つの目的 --リック・ウォレン著p151)もし、私たちが生きている事にうみ疲 れ、神様から見捨てられたように感じてしまうという最悪に思える時は、本当 は「自我の信仰」から「明渡しの信仰」へ脱皮しようとする恵みの時なのです 。元来、信仰は「感情体験」ではなく「信頼体験」です。信仰においては感情も 大切ですが、自立した霊的成熟さを得るため、「自分で重荷を担わないで、す べてを主にゆだねる」という全き信頼の世界に引き上げられる必要性がありま す。信仰を「感謝と喜び」という感情面だけを強調すると、そうでない自分を 責めたり、裁きたくなったりします。むしろ、何が起こっても、肝っ玉母さん のように「何も心配はいらない。主に任せる」と明るく大胆に宣言して進むこ とです。今の自分には感謝できることは何もないとつぶやきたい時こそ、静か に主の十字架に目を注ぎましょう。ふしぎなことに、明渡しの信仰がよみがえ り、そこから、みずみずしい感謝や歓喜の思いも生まれます。「主イエスはす べてを投げ出されました。主イエスが死んでくださったことによって、あなた は永遠に生きることができるようになりました。それだけでも、神はあなたが 不断の感謝と賛美をささげるに値するお方です。あなたはもはや、何を感謝す べきかと思い巡らす必要はないのです。」(同掲書p151〜152) 私たちはつい 主の痛みや苦しみについて忘れがちです。主の耐え難い激しい痛みは自分のた めにあったと気付くと、自分の思い煩いは不要であり、一切の重荷をゆだねよ うと決断できるようになります。イエス様の十字架こそ、感謝の源です。その 死の意味を何度も想起して、限りない愛を感謝し、また信頼しつつ生きていき たいものです。



2005年3月13日

悔い改めについて

牧師 犬塚 修

熱心に努めよ。悔い改めよ。             ヨハネの黙示録3:19

「悔い改め」はギリシァ語ではメタノイアと言います。その意味は「メタ(真 中に)ヌ−ス(-理性)」の合成語で「自分の心の真中に、神の意志や理性を受 け入れる」事です。ここから「心を変える。人生における考え方の根本をすっ かり変える。神の意志を受け入れ、キリストを自分の全生活の主として受け入 れる」事を意味するようになりました。悔い改めとは、今までと全く異なる価 値観に立ち、喜びに満ちて自由な存在として生きる事なのです。しかし、私た ちは自分の考え方に固執して、頑迷に生きる事があります。アンデルセンは「 裸の王様」の童話において当時の独裁者を痛烈に皮肉りました。王は立派な服 を着たつもりでいましたが、本当は裸であることに気付いてはいませんでした 。その頑迷さの一つとして「気づかう心」があります。私たちは心配する事は 愛の裏返しと思い込んでいるかもしれませんが、よくよく考えると、そうでは なくて自分勝手な考えにより、相手を支配している事があるものです。「愛に よる配慮」という美名のもと、その人の中に働こうとしている神の絶大な力を 認めず、いつしか相手を縛り上げてしまうのです。心配のし過ぎは不信仰の現 れに過ぎず、その正体は、主への不信仰です。私たちは無意識のうちに、自分 の思いを神の座に置く事があります。自分の思いこみが主のすばらしいみ業を 妨害してしまう危険性もあるものです。悔い改めとは、その自分の非や過ちを 深く悟る事です。逆に謙虚とは相手をすばらしい可能性に満ちた人として、自 分よりもはるかに優れていると認める事です「何事も利己心や虚栄心からする のではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」 (フィリピ23)自分が正しい、間違いないと思っている限り、私たちには何も 見えていない気がします。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう 。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの 罪は残る。」(ヨハネ9:41)



2005年3月20日

受難週を迎えて

牧師 犬塚 修

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです 。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 ガラテヤ2:19

私たちの信仰を、根底から崩そうとしている恐るべき力として律法主義があり ます。一度は打ち倒したはずのこの古い考えが頭をもたげてくると、喜びの信 仰は危機に瀕し始めます。良い性格、正しい行い等によって義とされるという 考え方に縛られますと、心はドロドロしたコ−ルタ−ルまみれ状態となり、つ いには生きる自信も奪われます。神のすばらしいみ業は、私たちの良い行いに 依存しているのでしょうか。断じてそうではありません。もし、そうならば、 私たちは完全無欠な信仰者にならなければ救われない事になります。それは不 可能です。もし、私たちが自分の完璧性にしがみつくならば、そうできない自 分の無力さを恨み、罪深さを嘆き、責め続ける事でしょう。律法主義は「お前 の失敗だ。お前がやるべきだった。お前の責任だ」と責めてきます。そして最 後には信仰の失格者として断罪するのです。 今週は受難週です。イエス様は罪のために十字架にかかって死んで下さったの は、私たちがどうしてもできなかった失敗や罪を自らが背負い、その罰を受け るためでした。主は私たちに「あれも、これもあなたがしなさい」とは厳しく 命じられたのではありません。私たちにできない事は多くあります。一度犯し た罪も、いつまでも消えませんので、一生、その重荷で苦しむ事となり、まさ しく悲哀の人生となります。イエス様はそのような地獄の責め苦から私たちを 完全に救い出すために死なれたのです。私たちが果たすべき責任を、自ら身代 わりとなり、十字架によって完全に果たされたのです。ですから、私たちは、 信仰によって律法主義の鎖を打ち砕く事ができます。イエス様を信じるという 信仰によって、それができるのです。私たちは今、イエス様と共に十字架にか かっており、罪に死んでいます。従ってもう罪の呪いも罰も死んでいる事にな ります。私たちは自由な神の子とされました!



2005年3月27日

イ−スタ−(復活祭)礼拝を迎えて

牧師 犬塚 修

私を強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能。 フィリピ4:13

約2000年前、主キリストが墓の中から復活されました。それにより、私たち人 類に永遠の命に至る新たな道が敷かれました。今や、信じる者の生涯に神の祝 福が潮のように満ちてくるのです。すでに2700年前、預言者イザヤは次のよう に予言しました。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えて いる。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に 大河を流れさせる」(イザヤ43:19)このような復活の奇跡が、私たちの人生に も現出するのですから、否定的な言葉をかなぐり捨て、神の絶大な約束の言葉 に聞き従いましょう。
「不可能だ」とあなたは言うが、「すべてのことは可能だ」(ルカ18:27) 
「疲れてしまった」とあなたは言うが「休息を与えよう」(マタイ11:28、30)
「誰も愛してくれない」とあなたは言うが、「私はあなたを愛している」(ヨハネ3:16)
「もう続けられない」とあなたは言うが、「私の恵みはあなたに十分である」(Uコリント12:9)
「わからなくなった」とあなたは言うが、「一歩一歩を導いている」(箴言3:5、6)
「私にはできない」とあなたは言うが、「どんなことでもできる」(フィリピ4:13)
「意味のないことだ」とあなたは言うが、「すべてを益とする」(ロマ8:28)
「自分を赦せない」とあなたは言うが、「私はあなたを赦している」(Tヨハネ1:9)
「もうやっていけない」とあなたは言うが、「必要をすべてを満たす」(フィリピ4:19)
「おそろしい」とあなたは言うが、「臆病な霊を与えたのではない」(Uテモテ1:7)
「心配でたまらない」とあなたは言うが、「私のすべてをゆだねよ」(1ペトロ5:7)
「信仰がない」とあなたは言うが、各々に応じた信仰のはかりがある」(ロマ12:3)
「賢くない」とあなたは言うが、「知恵を与えよう」(Tコリント1:30)
「孤独だ」とあなたは言うが、「私はあなたを見捨てない」(ヘブル13:5)


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