巻頭言
2004年3月


2004年3月7日

「伝道と新生」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ず べき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行い と共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、 真の知識に達するのです。コロサイ3:8〜10

定期総会を終え、私たちは2004年度に向かって、新しい準備を始めようと しています。共に伝道できる喜び、また新生の恵みに心満たされて生きたいも のです。無に等しい者にすぎなかった私たちを主は愛し、十字架の救いによっ て私たちの罪を完全に赦し、永遠の命を与えて下さいました。それは筆舌に尽 くしえない恵みであり、まさにに「アメイジング・グレイス(驚くべき恵み) 」です。昔の自分は罪におののき、空しく寂しい日々を送っていました。けれ ども、神を信じたことで、新しく生まれ変わり、今、私たちは主の喜びの中に 包まれ、生かされています。また神の性質に与る清い心が恵みとして授けられ ています。新しい人は、自分のがんばりによって、育つというよりもただ、主 の恵みによるものです。物乞いの子供でも、王子として養子縁組され、王位継 承者となってその美しい服を着れば、王子として見なされます。そのように私 たちは今、主からの義の衣を着て生きています。その恵みを感謝して、今まで 身に付けていた古い服を脱ぎ捨てましょう。「怒り、憤り、悪意、そしり、口 から出る恥ずべき言葉、うそ」という服を。そして、心を開き、「すべてを忍 び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える(第一コリント13:13)とい う細い道を進み行きたいものです。新生の恵みに与る時、私たちは今生まれた ばかりの赤子のような初々しさで、生きることができます。それは穏やかで平 安に満ちた楽しい歩みとならないでしょうか。また「主があなたの心の願いを ゆるし、あなたのはかりごとを、ことごとく遂げさせられるように」(詩篇20- 4)とあります。主の恵みにあふれ、日々、新しい人として力強く生きていこう ではありませんか



2004年3月14日

上からの新生

牧師 犬塚 修

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見るこ とはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一 度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言 っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」ヨハネ3:3〜5

以前、愛車の調子が悪く、困ってしまった事がありました。原因はバッテリ−が悪いと分かり、何度も 充電したのですが、うまくいきません。そこで、新品に取り替えたところ、すこぶる快調に動き出しました。 もし、私がこの故障を軽く考えて、同じ事をくり返していたならば、車はますますだめになった事でしょう。 それと同じく、私たちの心の深奥部が傷ついていると分かったら、大胆に発想を転換してみる事です。 しかし、普通は自分の力で色々な方法を試みて直そうと努力します。しかし、本当の完全な癒しは 天から、主なる神から来ます。車が故障したら自動車工場に行きます。心が深く傷ついたら、魂と体 を創造された創造主のもとに行くしか本当の道はありません。主の代わりとして私たちは、優れた人 間、すばらしい教訓、道徳、哲学、思想、戒め、などに頼ろうとします。また結局は自分しか頼り になるものはないと思い、自分を必死で信じようとします。しかし、人は皆、傷ともろさを秘めています。 根本的な救いは主にあります。心が痛み傷ついたところに、愛してやまないイエス様を受け入れた いものです。主が最も働きやすいように、思い煩いを捨て、力をぬく事です。主はニコデモに新生を 説かれました。「新しく」とは「上から」の意味です。「下から」とは人間的な精進です。「上に」おられ る神に全き信頼を寄せる事です。第一の新生は、母親の胎内から誕生、第二の新生は自我の 目覚め、これは思春期に相当します。第三は人格の中心に位置する霊(スピリット)の新生です。 神を信じる事で、私達の心はついに真の居場所を発見し、平安と喜びに至ります。



2004年3月21日

新しい皮袋を用いて

牧師 犬塚 修

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、 破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は 破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、 両方とも長もちする。 マタイ9:16〜17 

主が私たちの無数の罪をゆるすために苦しみを受けられた受難週まで、あと二週間となりました。2004年度を 間近に迎えようとしている今、体の精密検査を受けるつもりで、心の清めを求めたいものです。心にある古い革 袋を捨て、新しい革袋を持って、主を礼拝し、豊かな祝福に与りましょう。古い服や革袋とは主のみ心に従お うとしないかたくなな肉の性質です。たとえば、怠慢、恵みに対する無応答、自分勝手な放縦の生き方、主の 恵みに対して感謝を忘れた忘恩と冷淡さ、神中心に生きないエゴイズム、不信仰、不従順、自己卑下の傾 向、また、自分を安全な所に置いて物事を冷たく観察する高ぶり、他者を批判する悪習慣、ファリサイ人のよ うなかたくなさ、自分を義とする傲慢、律法学者のような行いの伴わない形式だけの信仰生活、神の子として の責任を負おうとしない無責任、主のために苦しむ事を避けようとする世俗性、自分の利益のみにとらわれる 欲、神の支配を認めない視野の狭さ、わがまま、横暴さ、うぬぼれ、冷ややかな批評など数多く数え切れな いほどあります。それらを深くとらえ、心から悔い改めて、それらを捨て去る決意をしたいものです。そして新しい 革袋を用いましょう。そこには、信望愛、また忍耐、謙遜、感謝、喜悦、従順などの名前が記されています。 古い革袋は私たちを絶望の子とします。主はむごい十字架の死を味わい、私たちの古いものを取り除く救いの 道を開拓されました。今や、私たちは新生した者として、生かされています。心へりくだって主に向く時、私たち は新たに神の民、また希望の子とされていくのです。



2004年3月28日

新生した者の平安

牧師 犬塚 修

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげ よう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさ い。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、 わたしの荷は軽いからである。  マタイ11-28〜30

人生において、優れたことをなしとげる事は大変に価値ある事です。一生懸命 、一つのことに打ち込んでがんばる姿は、何とすばらしい清々しさでしょうか 。アテネ・オリンピックが近づいてきましたが、参加を目指す選手達の命がけ の努力を見ると、深い感動を受け、見習わねばならないと痛感します。それは 私たちに全精力を注いで生きる事の尊さを教えてくれるでしょう。しかし、も う一つの真理もあります。それは、疲れた時、重荷を負った時は、静かに主の 前で休む生き方です。私たちは力を抜く事、何もしない事に慣れていない気が します。何もできない自分はダメだと思い込んでいる節もあります。もちろん 、怠けて良いというのではありませんが、私たちは自分の現実の姿を直視して 、適切な決断を下す事も大事です。私たちは時として、疲れ果てる事がありま す。それは長年の無理した積み重ねが原因です。たとえば、マラソンでも、練 習しすぎると疲労骨折してしまうように、今は無理してはならない場合もあり ます。体が休みたがっているのに、無理してがんばる事で、事態がいよいよ悪 化するケ−スもあります。慰めに満ちたイエス様は私たちの深い疲れや本心を 見抜き、実に適切な導き方をなされます。人知れず疲れている人には、今は休 みなさいとい強く勧め、まだ余力の残っている人には、立ち上がれと励まされ ます。もし、私たちが悩む事があれば、イエス様に祈る事です。主のもとには 本当の安らぎがあります。イエス様は大きな翼で、ひな鳥をおおわれます。そ して、少しづつ、元気に回復させて下さるのです。長い人生において、ゆっく りと休むことも、働く事と同じく価値ある事です。新生した者としてそうする 事です


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