巻頭言
2003年3月


2003年3月2日

「礼拝と栄光」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて、見ると、 前方に抜き身の剣を手にした一人の男がこちらに向かって立っていた。ヨシュア が歩み寄って、「あなたは味方か、それとも敵か」と問いかけると 彼は答えた。 「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」ヨシュアは地に ひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」 と言うと、 主の軍の将軍はヨシュアに言った。「あなたの足から履物を脱げ。 あなたの立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。  ヨシュア5:13〜15

エリコ攻撃を目前にしたヨシュアは内心、思い煩っていたかもしれません。 自軍の状態、準備の遅れを痛感し、それに比してエリコの強大な軍事力に思い をはせると、心は乱れ、不安におびえていたとも考えられます。主は人間の姿を とって、悩むヨシュアに近づかれました。その時、彼は思わず「あなたは味方か 敵か」と問うたのです。しかし、主はその問いに答えることなく、「私は全軍を 率いる将軍である」と言われました。この時、彼は自分の過ちと思い煩いの原因 を悟ったのです。ヨシュアは目の前の現実で頭が一杯になっていました。心のゆ とりを失い、底なし沼に沈むような思い煩いへの誘惑があったのです。しかし、 主は彼の心の向きを変えさせる事で癒し、救おうとされました。彼は自分が踏み しめていた土地が、栄光の神が支配されている聖なる場所と悟ったのです。自分 はいつの間にかすべての責任を自分が負い、過度の緊張に苦しんでいたことに気 づいたのでした。彼は主にひれ伏すことで、大きな平安と救いを体験します。 「今着いたところだ!」栄光の主は私たちにそう語られます。栄光に輝く主の みわざは今日から始まるのです。そのことを確信し、喜びの信仰に生き抜きま しょう。



2003年3月9日

神に知られている恵み 

牧師 犬塚 修

ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷 として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知 られている。 ガラテヤ4:8〜9

「われわれがイエスに対して真にあるべき関係は、イエスに捕えられて放されない、 という状態のほかならない。キリスト教徒の敬虔の念は、そのためにその人の意志 がイエスの意志によって所有されている、その時に価値があるのである」(シュバ イツァ-)私たちは神の恵みについて、深く通じているわけではありません。むし ろ、無知なことが余りにも多いことを悲しく思うものです。主の恵みの巨大さに比 べて、私たちの認識は余りにも貧弱です。しかし、主はこのような私たちに対して、 惜しむ事なく、愛を注ぎ尽くして下さっています。ですから、私たちは自分の知識に より頼むのではなく、主に知られていることに感謝と賛美をささげるべきなのです。 ダビデも「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つ のも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、 わたしの道にことごとく通じておられる。」(詩編139:1〜3)と主の恵みの大きさ に感嘆しています。この愛の主と心を一つとする生き方が、私たちのめざす最高の 道なのです。そして、そのような歩みができるならば、どんなにすばらしい祝福に あふれることでしょうか。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、 神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、 願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既に かなえられていることも分かります」(第一ヨハネ5:14〜15:)とある通りです。



2003年3月16日

明日のことは…

牧師 犬塚 修

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加 えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思 い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。マタイ6:33〜34

明日のことを思うと思いわずらいが潮のように、黒雲のように押し寄せてきます。 そして悪いことばかりが起こりそうに感じられてしまうのです。しかし、イエス様 はまず神の国(神のご支配)と神の義(神との正しい関係)を熱心に求めよ、と命 じられました。ここに私たちの勝利と平安の秘訣があるからです。人生は波乱に富 んでいます。そのただ中で、強く生きるためには、明日のことを思い煩わない決断 とキリスト信仰が不可欠です。「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。 救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵 みの時、今こそ、救いの日。」(第二コリント6:2)若き日、自殺未遂を企てた田 原米子さんは、イエス様を信じて救いを得ました。その時、事故で残った三本の指 を見て「神様、感謝します。私には三本も残りました」と祈られました。普通なら ば、三本しかないと、現実を悲しむこともできたでしょうが、すべてを益に変えら れる神に対して、命がけの信仰に立った瞬間でした。そして、この日から主はすば らしい奇跡を米子さんの上に現わされたのです。今は主が救いを示される時なので す。私たちにとって大きな敵とは何でしょうか。それは、不安感とイライラ感です。 私たちは神の隠されたすばらしい恵みに目をとめて生きたいものです。イライラす ると信仰はなえ衰えていきます。むしろ、ゆったりとした心で今を、今日一日を精 一杯感謝して生きることです。一瞬一瞬を喜んで、信仰によって歩むことです。



2003年3月23日

大丈夫感覚

牧師 犬塚 修

神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしな い」と言われました。 ヘブライ13:5

数年前、渡辺裕子氏が講演のため、当教会に来られました。その折、語られた内容の 中で非常に印象的であったのは「何があっても大丈夫と言ってください。この大丈夫 感覚を常に持って下さい」という言葉でした。何が起こっても、つらくても、大丈夫 という言葉をシャワ-のように、また耳にたこができるほどまでに自分に言い続ける ことはいかに重要なことかを痛感します。大丈夫ではない…と思い込んだ時、突然、 心は悪魔の占領されることが多い気がします。天地創造の神は見捨てられるはずがな いという強い確信を持たねばなりません。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなた の盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」(創世記15:1)と神はア ブラハムに対して語られました。彼はどうしようもない焦燥感や耐えざる痛みを体験 しておりました。今後のことを考えるといろいろな心配事に押し寄せていました。そ の時、神はみ言をもって近づかれたのです。私たちも突然、苦しみに会う時がありま す。そして、心は乱れ、信仰までもふるわれるように感じてしまうのです。しかし、 愛の神は恐れなくてもいい、私張あなたを守る盾だと言われます。ですから、強く大 丈夫!と言い続けることが必要なのです。「わたしは全能の神である。あなたはわた しに従って歩み、全き者となりなさい」(同17:1)。全き者とは主に対して完全な信 頼を寄せる人です。恐れは私たちを奴隷化し、大丈夫と叫ぶ感覚は私たちを自由にし ます。目に見える現実ではなく、永遠の神が支配される目に見えざる現実を心をとめ 信仰をもって歩む事です。



2003年3月30日

光のない時も

牧師 犬塚 修

お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。 闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。                                                                             イザヤ書50:10

あることを一生懸命に主に願い祈っても、それが叶えられない時があります。そんな 時はがっかりし、失望落胆してしまうことでしょう。なぜ主は、私の切なる祈りを聞 いてくださらなかったのか?と不信仰になったり、もし願いが叶ったならば、どんな に良かったかとつぶやいたりもするかもしれません。しかし、そのような挫折の時こ そ、私たちは本物の信仰を養成するという栄光の舞台に立っているのです。なぜなら ば、聖書に登場する数多くの聖徒たちも同じような疑問や苦しみにあいつつ、その中 でめざましい魂の覚醒に至ったからです。何の問題もない時に、私たちの信仰は自己 中心的になりがちですが、風雲急を告げ、心が煩悶する時、信仰の飛躍、また主の栄 光を見る絶好のチャンスを迎えているのです。アブラハム、イサク、ヤコブ、モ−セ、 エレミヤ、イザヤ、ダビデ、彼らの内、誰もが主の訓練の時を経て、用いられる器と して成長をとげていきました。私たちも同様です。その事実を思うならば、今もしば らくの艱難は、将来の栄光のためにあると断言しなければなりません。ですから、イ ザヤは悲しく絶望感に襲われる事があっても、それでもなお、強く信仰に立つ人とな れと熱く勧めています。私たちの信仰は火で焼かれ、精錬されることで本物とされて いきます。たとえ光のない状態でも、主への生きた信仰を失わず、主の最善の導きを 疑わず確信を持って生きる事です。私たちの信仰は十字架と復活を土台としています。 すなわち、何度も精神的な意味で自我に死ぬ必要性があるのです。そして自力ではな く、復活の命によって生きるのです。


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