巻頭言 2002年3月 |
「命が輝く交わり」月間を迎えて
牧師 犬塚 修
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。 (出エジプト記20 12 ) |
旧約時代では長寿は神の祝福のしるしでした。民は幸福で充実した人生を送るためには、自分の父母を
敬うことが必要だと教えられました。それは今も真理です。「敬う」とは「重い」の意味です。つまり、
父母の存在を軽く見ず、自分にとって非常に大きな存在であると信じる事が求められています。なぜこ
のように強く、両親に対する姿勢が問われているのでしょうか。それは、私達が服を着る時に、最初の
ボタンをかけ違えると、全体がおかしくなるように、父母との関係が不幸なものであると、人生は不完
全燃焼のようなものとなるからです。不幸の原因は、この父母との関係が修復されていない事にもある
のです。お互いが和解していないならば、幸福になりえないのです。いがみ合いは苦い根となって、私
達を苦しめます。私達は幼少期、父母から心理的な傷を受ける場合があります。たとえば、自分をあり
のままで愛してくれなかったと感じた時は、その不満や憤りを無意識の中に閉じ込めて、抑圧してしま
うのです。それがある日突然、吹き出たり、爆発したりするのです。しかし、完全無欠の親などこの世
にいません。親もまた罪を持つ人間です。また、父母自身も、自分の親から無条件に愛された体験を持
っていなかった事が多く、その結果、父母自身も愛をどのように子供に伝えてよいか分からなくなるの
です。一体、どうしたらお互いの不和から解放されるでしょうか。その解決方法の一つは思い切って赦
しの宣言をする事です。「お父さん、お母さん、私はあなたから十分な愛を受けたように感じた事があり
ません。しかし、今、イエス様の御名によって赦します」と祈ります。さらに「神様、父母を赦そうとし
なかった私の冷たい心を赦して下さい」と主に祈るのです。それを何回も繰り返すことです。そうして
いくと、いつしか、私達の中に神の命がシャワ−のように流れ落ちてきて、命が明るく輝く交わりの喜
びが与えられてくるのです。
祈りによる命の輝き
牧師 犬塚 修
どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が 行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊 に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(使徒言行録4:30,31) |
命が輝くような生き方は、熱心な祈りから生まれます。原始教会は大変弱い小さな群れにすぎません
でしたが、彼らは無限の力の源を知っていました。それは、祈りという世界への献身でした。彼らは、
独りで、または心を一つとして共に集まり、熱い祈りを捧げ続けました。それによって、彼らの生活
はすばらしいものとなり、神の栄光のみ業が始まったのです。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マ
リア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1:14)そして、人間の思い
では、とてもありえない奇跡的な救いの出来事が続々と、起こりました。以前の弟子達は弱々しく、
いつも「もうだめだ、失敗だ、取り返しがつかない」と、自分を責めたり、思い悩む事も多かったのに、
今や、どんな時でも「ハレルヤ、感謝します。恐れはありません。すべては益になります」と高らか
に主により頼み、すべては良し!という大胆な告白ができるように変えられたのです。このように祈り
は、どんなに弱々しい人も一変させる偉大な力を持っています。忍耐強く時間をかけて祈り続けますと、
ふしぎなことに絶望的な状況が少しづつ祝福の場に変えられていきます。それは後になって分かること
です。この世で勝利に満ちた人生を送る秘訣はこの祈りにあると言っても過言ではありません。これに
よって、私達は聖霊の力に満たされ、この世の事で一喜一憂することもなくなります。また、肉的で自
己中心的な自分の姿がはっきりと写し出され、真摯な悔い改めに導かれるのです。ついには、神第一の
生き方ができるようになり、命が輝きにあふれた清いものとなるのです。
命に至る道
牧師 犬塚 修
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから 入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを 見いだす者は少ない。」 (マタイ7:13,14) |
もし、私達が主から遠ざかり、自分の都合だけを優先するようになりますと、信仰生
活から命の輝きが消えはじめます。主に従う事こそが最も安全で、また自由な道なの
です。ところが、サタンは私達に主に従う事は不自由になるという誤解を与えます。
また、もっと楽な道、広い道を行けと甘い声をかけてきます。主は私達のために遠大
なご計画をお持ちですが、私達はそのすべて知ることはできません。私達がなすべき
事は主を信じ続ける事です。何が起ころうとも、ただ従う事です。自分の願いを無理
矢理に、主に押しつけたりすると、心は平安に導かれません。主にすべてをゆだね切
った心から平安は生まれます。二つの道があります。一つは狭い門から入って行く道
です。これはイエス様だけを信じる道であって、狭いのですが、祝福に至る門です。
もう一つは、開き直って自分の考えだけで人生を切り開こうとする広い道です。それ
は力強い道に見えますが、自分を主としていますので、最後は滅びに至ります。たと
え、いかなる犠牲を払っても、自分を捨てて、ひたすらイエス様について行く事です。
その人は時満ちて大いに祝福されます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自
分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを
失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、
たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買
い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわ
たしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る
ときに、その者を恥じる。」(マルコ8:34〜38)
受難週を迎えて
牧師 犬塚 修
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、 わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和 が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 (イザヤ書53:5, 6) |
キリスト信仰は私達を救いに導きます。神の御子イエス様は人類の罪、即ちこの私達自
身の罪のために十字架にかかって死なれました。その歴史的事実を真摯に受けとめ
「主よ、感謝します」と信じる時、永遠の救い椅子はすぐに与えられます。それは
恵みの賜物です。しかし、そんな事は信じられないと拒むならば、神の命を得る事は
ありえません。「永遠の救い」という水は「信仰というパイプ」を通してでないと流れて
こないのです。もし、私が友を信頼しないならば、二人の関係はいつまでたっても平
行線のままでしょう。その関係は孤独で味気ないものとなります。「この人は真実な
人だ」という信頼感から、共に生きる喜びや感謝が生まれてきます。そのように、イ
エス様との関係も、信頼感(信仰)から生じます。しかし、ここにも難問題があります。
それは、私達が人間関係において、苦い裏切りや悲しみを体験していた場合、人を心か
ら信頼する事が難しいという点です。信頼したくてもどうしてもできないのです。どう
したら、良いのでしょうか。それは、まず傷を癒される事です。その癒しは自分の意志
力で何とかしようとする我慢によるではなくて、それを表現し、かつ発散する事で可能
になるのです。傷ある人は、実は、相手を傷つける事で、癒されていくといいます。し
かし、そのような事をすれば、私達は実生活が難しいものとなるでしょう。また、憎し
みの連鎖は更に広がっていく危険もはらんでいます。根本的な解決の道として、イエス
様自らが、私達の怨念、罪、痛み、傷等のすべてを引き受けられました。それが十字架
です。イエス様のお体を刺し貫いた剣は、私達の主への背き、咎でした。ですから、私
達は主の元に行き、自分の思いをぶつけ、甘え、叫び、うめくのです。そして次第に癒
しが与えられ、喜びや感謝が生まれてくるのです。
イ−スタ-礼拝を迎えて−ゆだねよ
牧師 犬塚 修
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけ てあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 (ヨハネ20:26) |
29日の金曜日は一日中大雨が降りしきりました、時あたかも、イエスキリストが十字架に
ついてあがないを完成された記念すべき日でした。夕方にはバケツの底をひっくり返したよ
うなどしゃ降りとなり、ノアの洪水を連想させるほどの激しさでした。その驚くべき雨の量
を見ていた時、それがまるで私達のすべての罪や汚れを汚れを洗い清めているかのように思
われたのです。そして十字架は私達の罪に対する神の激しい怒りと、それでも、どうしても
赦さずにおれない神の愛を示している愛の奇跡であることに改めて感動したことでした。と
ころが、土曜日の早朝、外に出てみると、昨晩には考えられない美しい紺碧の大空が広がっ
ておりました。その瞬間、私はどんな大雨も止み、漆黒の暗い夜も゙明けるように、主は復活
によって、私達の苦しみを終らせてすばらしい希望の朝を与えられることを確信したことで
した。確かに、復活の主を信じて生きる人の苦しみは必ず終るのです。主が疑うトマスにも
出現され「あなたも信じる者になりなさい」と言われました。信仰とは見ないで信じる事です。
私達は、今の苦難も、明日には歓喜に変わると信じ、明るく将来を見つめ、神様に何もかも任
せて生きて良いのです。
委ねよ 委ねよ 委ねよ…
自分の力や知恵ではどうにもできない心配を…
友と楽しく話す時も胸から消えない心配を…
すべてのことをよきようにしてくださる父なる御神に (水野源三)