巻頭言
2001年3月


2001年3月 4日

夢を抱いて

牧師 犬塚 修

さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるか ぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなた の子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなた の子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わ たしはそれをあなたに与えるから。 創世記13:14〜17

私たちを生かす根源的な力はみ言に対する確信と夢にあります。 神はアブラハムと大きな祝福の約束を結ばれました。人生の晩年にあった無名 の人物に驚くべき恵みと夢が与えられたのです。そして、この夢が辛苦の時に あった彼を力強く支えたのです。

私たちの心の状態が悪ければ、悪いほど、幻を大きく広げる必要があるのです。 心は非常に繊細なもので、疑い、恐れ、不安というものに脅かされる事があり ます。これらの支配に屈しないためにも、太陽のような明るい夢を持ち続ける 事です。夢の実現を信じて生きる時、心は南仏のアルルに咲いたひまわりにも 似て輝きを増してくるのです。ゴッホはその輝く花に魅了され、絵筆をとり ました。

赤ちゃんを生もうとする母は、その喜びの日を指折り数えてひたすらに待ち ます。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。 しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、 もはやその苦痛を思い出さない。

ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたが たと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪 い去る者はいない。」(ヨハネ16:20)とイエス様は言われました。「主よ、私の夢 を叶えて下さい」という切なる求めに対して、愛に満ちた主は確かな導きと救い の御手を差し出されます。主の恵みは信じる者を追ってくるのです。故にまず イエス様を信じて生きる事です。




2001年3月11日

謙って生きる

牧師 犬塚 修

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自 分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも 注意を払いなさい。 フィリピ2:3〜4  

水は低い所に流れるように、神の恵みのへりくだった心に与えられます。この場 合のへりくだりとは、何を意味するのでしょうか。普通、謙遜とは「腰が低い」 とか「自己主張をしない」事などを指します。しかし、聖書においては、むしろ毅 然とした態度を持って主なる神を信頼して生きることを教えています。

旧約の預言 者モ−セは謙遜で柔和な人と言われていますが、彼は決して柔弱でなく自分の信じ ている真理を勇気をもって語り実践する人でした。ただし、それは、自分の感情や 価値観によるものではなく、主への献身に土台を置くものでした。彼は「利己心や 虚栄心」というものが余りなかったように見えます。

長い人生において、自分の誇 りと確信が傷つけられたり、自分の思いが伝わらず、誤解されたりした時もあった ことでしょう。そんな時は、ガックリと肩を落とした姿が目に浮かびます。しかし、 しばらくして心を切り替え、主からの慰めと力を求めていきました。ここにモ−セ のすばらしさと信仰的成熟さがあります。

彼の確信と解放感はどこからきたので しょうか。彼は苦悩のどん底から神御自身に問いかけました。神とのマンツ−マン の対話の中で、問題を少しずつ解決していくという道を選び取りました。私たちは 人に対して過大に期待したり、また、自分を正しいとしたりしやすいものです。 そこから偏見や誤解などが生まれます。むしろ自分の不足を知り、人を自分よりも 優れた者と見なす謙虚さを持って生きることです。それによって、私たちの心は豊 かなものとされます。




2001年3月18日

「聖潔と伝道」月間の中で

牧師 犬塚 修

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付 けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけで ある。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」マタイ5:13〜14

主イエス様は「あなた方はまだまだ未熟だ。早く地の塩となれ。また世の光となるべ きだ。」とは言われませんでした。そうではなく「あなた方はすでにそうなのです。」と 断言されました。

これを聞いた弟子たちは天地がひっくり返るような驚きを覚えたに違いありません。なぜならば、 当時、めざましい働きをしていたのは律法学者やパイサイ人という一部のエリ−トたちで、弟子たち といえば、無学な労働者にすぎませんでしたから。しかし、主は全く異なる見方をされました。 確かに「事実は小説より奇なり」でのちに、弟子たちは使徒団を結成し、古代世界を変革して行 きました。正しく彼らは平和の戦士として、鮮やかな生き方を貫きました。

なぜこんな不思議な 出来事が起こったのでしょうか。それはキリストの力、聖霊のみわざによりました。「あなたがたは、 自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。…あなたがた はその神殿なのです。」(第一コリント3:16〜17)とあります。主が宿られた主の神殿は、そのままの 姿で雄大であり、輝いているのです。神殿は主に従う群れの事です。確かに主は、自分を捨て、自分 の十字架を負って従う人々を求められました。彼らは自分の中に誇るべき能力を持っていない事を 痛感していました。そのへりくだりのゆえに、かえって豊かな者になりました。何も持たない人は、 命を神に預けようとします。また聖潔な道を生きようとします。そして「無から有を創造される神」 を確信するのです。無に等しい者は本当に強いのです。



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