巻頭言 2000年3月 |
「主にすべてをゆだねた教会」月間を迎えて
牧師 犬塚 修
「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださる からです」 (第一ペトロ5:6〜7) |
「お任せする」とは「〜の上に投げる。かけて置く。(悩みや煩い)を)ゆだねる」の意味です。つまり、
この言葉は当時の日用語でした。古びた不必要の衣服を処分するために、捨ててしまう時に用い
たようです。
このように「任せる行為」は私達の心のトレ−ニングです。確かに、私達は弱さのゆえ
に、完全には自分の思い煩いから解放される事はできないかもしれません。しかし、それらをたえ
ず、主の十字架のもとに持っていって投げ捨てることはできます。この「捨てる」という行為を無造
作にする事です。何か難問題が起こるとすぐ瞬間的に、それを主に任せるという良い習慣を体得す
ることです。それが無造作にできるようになるとどんなにすばらしいことでしょうか。そしてすぐ
に新しい義の服(イエス・キリスト)を着る事です。それは希望と愛に満ちたものであり、また暖か
いマントのようなものです。
次に自分を低くする事です。私達は恵まれ過ぎている世界に感謝もせ
ずに安住してると、どうしても傲慢さや優越感に毒されるようになりがちです。そして「自己保身」
「虚偽」に堕し、弱者の痛みやうめき、訴えにも鈍感と無感覚になります。現実を直視しつつ共感す
るという心はどうして養われるのでしょうか。私達は厳しい現実と戦い、苦しみうめく中で、すべて
を主にゆだねるという経験を積み重ねることで、思いやりや優しさ、正義感などを学んでいく気がし
ます。
神が私達の罪や弱さを引き受け、また心にかけて下さることを信じる時、愛と責任に目覚めて
いきます。神の義と聖の道に新しい一歩を踏み出したいものです。
寄留者として
牧師 犬塚 契
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。 (ヨハネ12:24) |
第二次世界大戦の前、カール・バルトが、ドイツを離れロンドンで牧師をしていたボンヘッ
ファーへの手紙でこう書いている。「こうして、君が再びドイツへ帰る事をすすめても、
実際は君に勝利にあずかることのできる見通しを示すことが出来ません。ドイツでは、あ
らゆることから全く辛酸と苦悩をなめさせられるばかりです。…どんな苦労も徒労に終わっ
て、ドイツの教会は没落して行くばかりだ…。しかし、今から疲れてしまってはダメです」。
ボンヘッファーも、書いている。「…人間的に言えば絶望的な戦いを戦っている…」。
近くの本屋に行く。様々な本が並ぶ。よく目に付くのは、「どう、上手に生きていくか?」
式の本である。それで、キリスト教書店に行く。「平安を得るための…」「祝福される…」「
成長する…」。このような本が多い。確かに、それらは約束された祝福の一部であると思うし、
私の本棚にも並んでいる。しかし、「人間的に見れば絶望的な戦い」の時、私たちはどう生きて
いけばいいのだろうか?
やはり、私たちはこの世では「寄留者」であり、「仮住まいの者」なのだと感じる。この世に
生を受けただれもが、例外なく死んでいった。いずれ、私たちも「仮住まい」から、「本当の
住まい」に移される時がくる。
クリスチャンとしてこの世に立たされている中で、いつでも
死ぬ覚悟ができて見えてくるものがある様に思う。その覚悟ができて、苦労が徒労に終わる
事があったとしても、はじめて「人間的に言えば絶望的な戦い」を戦いぬいて行く事ができ
るのだと思う。
解放された者として
牧師 犬塚 修
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してく ださいました。 (コロサイ1:13) |
「移す」とは「場所を変えさせる。しりぞける。解任する。(免職する)」
などの意味があります。
私たちが以前に住んでいた場所は、実はサタンの
支配する「闇の世界」でした。そこでは、私たちの心は傷つけられ、劣等感、
恐れ、不安、怒り、悲しみなどにうちのめされ、罪のとりことして虐待されて
きました。今日も数多くの人々が自殺へと追い立てられています。実に痛ましい
ことです。特に中高年層の自殺者は激増の一途をたどっています。
しかし、主イエス様は苦しみうめく私たち私たちの所に降ってこられました。
そして、主自ら私たちと同じような苦しみを受け、闇の力から救い出して
くださるのです。
私たちを苦しめるものの一つに、「自分の住む場所がない」
という不安感があります。私たちは年齢を重ねる毎に、自分の両肩にのしかかる
責任はいよいよ重くなります。その重圧感、プレッシャーはいつしかノイローゼ
状態に引きづりこんでいきます。そしてついに全てに絶望し、自分は生きる資格
がないかのように落ち込み、逃避や死への甘い誘惑にさらされていくのです。
しかし、主は私たちの現実を良く知っておられます。そして、私たちを新しい
場所へと移し替えられたのです。イエス様を信じる者にとって、自分が引っ越し
した場所は、主の赦しに満ちた自由と平安の新世界なのです。この信仰の世界に
住む者にとって、全ては新しくなりました。
「主にすべてをゆだねた教会」とは、
自分で自分の首をしめるような重圧感から解放され、過度の責任感や偽りの栄光
という地位から免職された教会のことです。イエス様の愛は無限であり、どんなに
受けても尽きることがない泉のようなのですから、その命の水を飲みつつ、喜びと
解放感に生きていきましょう。
恐れないで生きる
牧師 犬塚 修
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に 勝っている。(ヨハネ16:33) |
私たちにとって、生きる力や生きがいはどこから生まれてくるのでしょうか。
ヨハネは苦難に立ち向かう勇気があると言っています。
確かに人生は戦いの
連続であります。時々、私たちは疲れ果て、生きる気力を失っていくことが
あるかもしれません。しかし、だからと言って、何もせずに全てを諦め、無気力
という静かな「たこ壺」の中に入って行くことは、精神的な死を意味する
のです。
激しい戦いの中にあると、私たちは、傷ついたり、苦しむようになり
ますが、そのような苦闘が、実は私たちに生きるエネルギーを与えることも
多いのです。また、罪に対して、諦め「自分はもう駄目だ」と開き直るのでは
なく、何度も挑戦して行く時、新しい自分が創られて行くのです。失敗は決して
恥ではありません。私たちはこれから、多くの教訓を学び得るからです。失敗
することは、諦めることよりも偉大です。
私たちは戦いに出る時は、全神経は
張り詰め、震えるような不安感や恐れを覚えます。しかし、このような時こそ、
私たちの心は神に近くあり、それによって、信仰の根は土中、深く広がって
いくのです。そして、将来に向かって大きな祝福の実を結んでいるのです。
失敗と成功は紙一重です。失敗する毎に、成功は近づいてきます。しかし、
戦いを放棄してしまうことは、余りにも悲しい逃避です。
「わたしは主、
あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う 恐れるな、わたしはあな
たを助ける、と。」(イザヤ41:13)と主は言われます。主はこの世に対して
勝利を得られたのです。