巻頭言 1999年2月 |
「礼拝と献身」月間を迎えて
牧師 犬塚 修
だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造 主に自分の魂をゆだねなさい。(ペトロ一4:19) |
「いつの頃からか、デカルトの『私は考える。ゆえに私はある。』をもじった
といえる『私は考えさせられている。ゆえに私はない。』という言葉が頭を離れない。
…いったい、私の考えというのがあるのだろうか。」(池明観:輸林大学教授・
日本学研究所所長)
確かに、「これだけは私の独創によるのだ。」と言えるものは、私には一つも
ない。凡て、多くの人々から教えられたものである。つまり、私の考えとは、
他者と自己とのぶつかりあいによって生じた花火に似ていると言えよう。他者
との出会いなくして、私は考えることもできないのである。
「献身」という一語は極めて重い。果たして私の中に、主に献げ得る値打ち
のあるものがあるのであろうか。否、ない。しかし、私が多くに人々と触れ合う
ことによって与えられた主の恵みをお返しすることはできる。そう思った時、
肩の荷が軽くなった。
以前は、私自身の独創性、無比性が生きる意義のように思った
時期もあったが、そのようなものは恒久的なものではない。ある芸術家は己の天分
を世に現そうとして焦り、薬に依存したりすることもあったという。そこに、
ジレンマ、ストレス、罪責感、強迫観念が生じる。
私たちにとって大切なことは
神に「魂をゆだねる」ことである。「私はない」と謙虚に自分を顧みることのできた
池師は正に献身の生涯を全うされている。明るく軽やかにかつ、しなやかに主に
従って生きる秘訣は、この「魂をゆだねる」所にあるのではなかろうか。
定期総会について
牧師 犬塚 修
時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、 主の御心が何であるかを悟りなさい。…語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 (エフェソ5:16〜19) |
「定期総会が、次主日の礼拝後に、開かれるので、何卒、万障繰り合わせてもご参加
ください。特に予算を決定することは、非常に重要なことであります。家族で大切な
ことは、お互いが心を一つとなることを目指して、よく対話することです。もし、
そこに「語らい」があるならば、その家族は幸福と言えるでしょう。
「神の家族」である教会も同様です。パウロは「今は悪い時代」と言いましたが、
現代はもっと複雑な難問題が山積みされています。素晴らしい教会となるためには、
共に集まって、討論する必要があります。また、主の御心を知るためには、個人的な
瞑想の時を多く持つことではなく、共に集い話し合うことなのです。その意味で、
総会は、私たちの教会にとって、最も重要な会と言えます。ここは、一年間、また、
将来の幻を確認し合う場であるからです。相談しなければど
んな計画も挫折する。参議が多ければ実現する。(箴言15:22)とあります。
今月は、「献身」について考える時ですが、献身の生き方とは、教会を愛することの
中に現されます。教会への愛とイエス様への愛は正比例するのです。故に、私は、主の
体である教会のために、共に労苦することこそ、素晴らしい生き方であると確信して
います。そして、教会は、一人一人は主のために無私的な生き方を積み重ねることに
よって、堅固な土台を固めていくのであります。
スチュワードシップについて
牧師 犬塚 修
彼らは、患難のために激しい試錬をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の 貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。 (口語訳:コリント二8:2) |
二月は「礼拝と献身」(スチュワードシップ)月間です。「スチュワードシップ」
とは「しもべとしての在り方」の意味です。ちなみに、「スチュワード」は「仕える
人」の意味です。
もし、しもべが主の命令に逆らって自分の意のままに行動したら、
すべては大混乱となることでしょう。それと同様に、私たちは主イエスの命令に
従う時に、豊かな恵みにあずかることができるのです。信仰生活は主と自分の
生きた応答関係であります。主が「行け!」と言われれば「ハイ!」と応え従う
時、主の御業はなされていくのです。
しかし、もし主の命令を知っていながら、
それを無視したり、無関心に聞き流してしまったならば、どうでしょうか。
それは主を悲しませ、祝福も遠ざかります。
「神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、
また刈り取ることになるのです。」(ガラテヤ6:7)
私たちは自分がいつの間にか主人の座に座ることがあってはなりません。自分の
思いで、み旨を拒否することがなく、主の導きを信じ、平安に生きることです。
利得への欲望、享楽主義、利己心、不安、軽率な行動に代えて、自分自身を
まず、主に捧げましょう。
聖徒たちは、激しい試練の中にありながら、
喜びに溢れました。主が私たちのために貧しくなられたゆえに、私たちも自分
を捧げて生きていきたいものです。それは、感謝に満ちたしもべとしての歩みです。
キリストが祈られる
牧師 犬塚 修
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きて おられるのです。(ガラテヤ2:20) |
祈りの人、マザー・テレサは次のように語ったと言われています。「わたしの中
でキリストは祈ります。わたしの中でキリストは働きます。わたしの中でキリス
トは考えます。…わたしの中でキリストは愛します。…祈りとは、キリストにわ
たし自身を完全にゆだねること、キリストと完全に一つになること以外の何もの
でもありません。」
定期総会におきまして1999年度の年間方針は「共に集い、共
に祈る教会をめざそう」と決定しました。共に集う私たちの所に、キリストは来
られ、熱く祈られます。そして、私たちはキリストにとって大切な器です。器の
務めは自らを清く保つことです。
「だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、
貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い
業のために備えられたものとなるのです。」(テモテ二2:21)私たちがこの世の
汚れや悪と闘い、清くなることを志すならば、神の貴い器となって栄光を現す者
となります。また、その人は、肩から力を抜いた自由な生き方ができるようにな
ります。
祈り、働き、考え、愛などは、自分自身の内側から、無理してしぼり出
すものでなく、一切がキリストの中に隠されています。従って、私たちはキリス
トをお乗せした子ろばのように、ただ喜びつつ、主と共に歩むことで、すばらし
い天来の祝福にあふれて生きることができるのです。それは思い煩いから解放さ
れ、また感謝と謙遜に満ちた人生です。