巻頭言
2024年2月


2024年2月4日

「わたしはいのちのパンである」

犬塚 美佐子師

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 <ヨハネによる福音書6章1-15節>

 このパンの奇跡は多忙の中をぬって、主イエス様と弟子たちが休むために、ベトサイダを訪れた時の話です。カナでは水をぶどう酒に変え、べトザタの池では、38年間、患っていた人を癒すなど、数々の働きを世に示した主を、群衆は休ませてはくれませんでした。男だけで、5000人が後を追ってついて来たのです。この様を見て、主は拒むことなく、その中の病人を癒されました。やがて日が落ち、群衆への対応が求められます。弟子たちは主に「群衆を解散させてください。自分で村へ、食べ物を買いに行くでしょう」と言いました。しかし、主の飼い主のいない羊のような群衆を憐れに思う対応の仕方は、弟子たちと違っていました。フィリピに思いがけない質問をされたのです。「この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えば、良いだろうか」と主に、この非常事態への対応を求められたフィリポが出した苦渋の結論は「成す術がない」という事でした。ーー各々が少しづつ、食べるためにも、200デナリオン(大体、200万円に相当)のパンでも足りないでしょう。ましてや、2万人分を供給するパン屋が、どこにあるのか。ーーこの聖書の箇所を読みながら「成す術がない」と叫ぶフィリポは「私でもある!」と思いました。人生の中で、遭遇する課題に「成す術がない」と追い込まれる事がどれ程あるでしょうか。元々、フィリポに、この話を待ちかけたのは、主でした。問題を呈示され、その人の中から、あぶりだされるもの、すなわちー成す術がないーという叫び、イエスはこの告白をフィリピから聞き取りました。そして「私には方法がある」とイエスは、絶望の心に伝えます。アンデレの場合、少年から受け取ったパンと魚が絶望的に足りない事を知りつつ、イエスに差し出します。ローマ書11:35に「誰がまず主に与えて、その報いを受け取るであろうか」とあります。イエスはパンと魚を受け取り、感謝して分け与えられ、群衆は満腹したとあります。いかなる時も、主に身を寄せる者に「恐れるな、わたしだ」と、み声が響きます。



2024年2月11日

「わたしは自分の羊を知っている」

犬塚 修牧師

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導 かれ、一つの群れになる。 <ヨハネによる福音書10章7−18節>

 「わたし良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)  主イエスは「わたしは羊の門である」(7節)と言われた。強盗や盗人が羊を奪い取ろうとして、襲いかかっても、羊がその門に飛び込むならば、命は救われた。イエス以外に「救いの門」はない。敵に飲み込まれないために、命がけで、イエスという門に入る(信仰に生きる)事が必要である。▲羊のために命を捨てる羊飼いー−−「良い羊飼い」は、自分の羊を敵から守ろうとして、大事な命を落とす事があった。少年ダビデは、熊や獅子、狼に襲われた羊を取り戻そうとして、必死で敵と戦った。(第一サムエル記17:34〜35)    主イエスは、十字架にかかり、私たちの身代わりとなって死なれた。それは、邪悪な敵との激闘であり、命を捨てても、私たちを滅びの門から救い出すためであった。「命を捨てる」犠牲のみ業は、非常な激痛と苦悩を伴うものであった。ゆえに、私たちは主イエスの犠牲の死に対し、畏敬と深い感謝の念を抱きたい。それが、どんなにあり得ない程の恵みであったかを思い巡らしたい。「私にはよく分からないし、私の人生とは。関係もない」とつぶやいて、イエスの十字架を無視、軽視しないように気を付けよう。▲イエスは私たちを知って(体験して)おられるー−イエスの十字架は、私たちを深く愛されている証拠である。私たちのすべてを知り尽くしておられる。良い点ばかりではなく、恥、罪、醜さも知った上で、それでも、ご自身の血を流す事で、すべてを赦して下さっている。その赦しこそが、私たちの希望と平安の源泉である。私たちは時には、変わらない現実に失望し、絶望する時もあろう。しかし、最悪な時でも、心の中の喜びは失われる事はない。イエスの変わる事のない愛とご支配を信じているからである。主に従う人は、絶望を希望に変える事ができる。▲私たちもイエスを知って(体験して)いるー−−一方、私たちは、「どれ程イエスについて知っているか」と問われれば、恥ずかしくなる。本当は、余り知らない気がしてしまう。しかし、「長血の女」(マルコ5:21〜34)から、学び得る真理がある。この人は群衆の真っただ中で、イエスの服にわずかに触っただけで、重い病が癒された事を体験した。イエスの溢れる癒しの力が、体に注がれる事を感じた。彼女はイエスのすべての愛を知った(体験した)のである。このお方は完全な愛と力に満ちた神である。私たちも、イエスの完全なご支配に、全身全霊をゆだねて生きたいものである。



2024年2月18日

「主に導かれて」

犬塚 美佐子師

イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来 た。         <ヨハネによる福音書9章1−17節>

 9章1節に「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」とあります。弟子たちは、イエス様に尋ねます。「この人が生まれつき目の見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」弟子たちは生まれつき目の見えない事は、罪の結果だと判断しています。8節には、彼が物乞いをしていたのを、前に見ていた人々は「これは座って、物乞いをしていた人ではないか」と言っています。この表現の中には、彼への尊厳は微塵もありません。彼の存在を「これは」と呼び、モノ扱いする表現には痛みがよぎります。ただ、どの時代も、一人の存在が、人目には軽く、薄く、感じられてきたことは、今もなお、否めない事なのでしょうか。こんな空気を破って、イエス様は、驚くべき宣言をなさいます。「本人が罪を犯したからでもなく、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9章3節) と言われました。その存在が、神の業が現れていく器として、この人に光が当てられます。人は生まれつきの自分の存在をどう理解し、受け止めるのでしょうか。人は誰もが、生まれつきを生きています。生まれた時の状態と、境遇はそれぞれ違います。痛みがあり、不自由があり、貧しさか゛あり、……。けれどもイエス様は、生を受けた者すべてが、神の業を顕わす存在として、尊いのだと言われます。イエス様は、唾でこねた土を彼の目にお塗りになり「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。シロアムとは「遣わされて行く」の意がありますが、その険しい茨の1500mの谷道を、即座に下ります。そこに、彼の癒しがありました。私たちの人生の道のりを遣わされた者として、その豊かな実を味わい知る道のりを「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われるイエス様に守られて、ご一緒に歩いてまいりましょう。



2024年2月25日

「わたしは復活であり、命である」

犬塚 修牧師

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 <ヨハネによる福音書11章17−27節>

 パウロの復活の宣教は、心の頑ななアテネ人には、余り響かなかった。しかし、兄弟ラザロの死によって、深い悲しみに陥っていた人たちにとって、イエスの訪問は、どんなに慰められた事であろうか。主は死の危険を冒してまで、彼らの家に赴かれた。マルタは、深い信仰の持ち主であったが、復活に関しては、喜びの源泉とはなっていなかった。しかし、イエスは、復活は遠い将来の出来事ではなく、今、ここで体験する事だと言われた。▲「死んでも生きる」ー−−私たちは皆、必ず死ぬ運命にあるが、死によってすべてが終わるのではない。私たちにとっては、永遠の命(神の命)を得ているからである。「わたしは復活であり、命である」と主は言われた。「である」は「存在・生成・活動」を含んでいる。即ち、イエスを信じる者に、神はご自身の命を与えられる。主は、私たちと共に、いつまでも生きて下さる。イエスは縦糸、私たちは横糸に似ており、二つとない人生という作品を織りなされるのである。▲死は滅び去った。−−−「生きていてわたしを信じる者は、決して死なない」の「決して」は「永遠に」である。十字架は死のとげを除き、復活は永遠の命を確証した。(ヨハネ3:16) 死は、もう一つの世界への移行である。私たちはこの世では「さすらい人(へブル人の意味)」、この世は「仮庵」である。本籍は天国にある。喜びをもって主に従っていきましょう。




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