巻頭言
2023年2月


2023年2月5日

「時をみよ」

草島 豊協力牧師

それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患ってい る人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」<22-23節> <ルカによる福音書7章18-35節>

 洗礼者ヨハネが弟子を派遣して、イエスに「あなたがキリストですか」と質問する。当時、ローマ帝国に支配される中で民衆の関心事は自分たちを解放してくれる方は誰なのかであった。イエスの答えは「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」。その答えが意味するところは誰がメシアで、誰についていくかではなく、神がいまこの世界に働いていることに目を留めよ、神の働く時を見よ、という意味ではなかったか。  では私たちは、どのように今の時をみているか。神の働きに目を留めているだろうか。それが今私たちに問われている。いま世界状況を見たとき気持ちがふさがる。日本国内に目を向けても…希望を見失いそうになる。そのような中で神は本当に働いているのだろうかと疑問に思う。いやむしろ、神がこの世界に働いていることを、ふと忘れてしまっている。そんなことはないか。どのように自分を、社会を、世界を見たら良いか。  …神の働きとは、自分の願いどおりになることではない。私たちは神が解決してくれることを願う。しかし神の思いは私たち自身が解決していくことではないか。互いに憎しみが煽られ、人と人が分断させられるなかで、そうではない世界を創っていくようにと、私たちに期待されているのではないだろうか。そして私たち一人一人に、神は働いている。たとえ小さくても、この私たち一人一人に。だから私たちの祈りは、あなたの働きに気づかせてください。あなたのみこころを求めさせて下さい。あなたの語りかけを聞けるように心を整えて下さい。そんな祈りを、願いを献げたいのです。



2023年2月12日

「イエスの涙、イエスの怒り」

犬塚 契牧師

エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。 <ルカによる福音書19章41−48節>

 若くして死んだゆえに、生前の業績や働きが際立ち「伝説」になるような人は、結構いるものです。ミュージシャン、俳優、政治家、物書き、牧師にもいるでしょう。だとしても、死に至る最後の週をかくも詳細に書いていく福音書は不思議です。しかし、最初から自明であったのではなさそうです。時間はかかりましたが、隠すべき、恥辱であったイエスの十字架刑は、彼らの信ずる神の御想いと受け止められていきました。敗北が勝利、負くるが勝ちと知らされていきました。ルカ19章。過ぎ越しの祭りに向かう大勢の群衆の中に、奇跡を起こす新進気鋭のラビ・イエスの姿を見つけた人たちは、喜んで声を上げました。「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。」(37節)道端には人々の上着が敷き詰められましたが、エルサレムに近づく主イエスの目には涙がこぼれていました。思わぬ歓待に感激の嬉し涙ではありませんでした。「平和の町」と言われるエルサレムのこれから悲劇を案じてのことでした。繰り返されるローマへの抵抗、私欲の宗教的指導者、風見鶏のような民衆たちの熱狂の行く道が、廃墟と後輩へと続いていくのが見えました。ロバに乗って平和の勝利の知らせを告げつつエルサレムに入城した主イエスは、1週間で磔刑に処せられます。負け戦です。しかし負けるが…。



2023年2月19日

「ともし火をともして」

犬塚 契牧師

 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ…」        <ルカによる福音書8章16−18節>

 なんだか別々の場面で語られた3つの格言をくっつけて並べたような聖書箇所だなぁ。つなげて読めるのかなぁ。そんな感想です。▲ランプはベットの下に置くことはないし、鍋で隠すこともしません。あり得ないことです。しかし、それが起きました。宗教的指導者は、神の言葉に覆いかけ、神の御想いの広さ、深さを矮小化し、啓示の光を隠してしまいました。そんな具体的な出来事に相対した主イエスの糾弾だったのでしょう。福音書が書かれ時にそれは思い出され、教会への普遍的な教えとなりました。他でもない、ともし火とは、主イエスキリストご自身の事として想起されました。どんなに小さくとそれはともし火です。信仰者はそれを持つものです。ここぞという場面において、それを証しするものです。以心伝心に勝手に期待してはならないのでしょう。あまりに大切な使命です。しかし、それはまた幸いにも「あらわにならないものではなく」、「公にならないものはない」ものでもあるようです。続く言葉は、本当に福音(よき知らせ)でした。緊張と緩和にほっとしています。ゆえになおのこと、聞くべき姿勢をいただきたいのです。「神さまのお心がわかるようになってくると、その素晴らしさに心惹かれて、ますますわかるようになるものだ。」(ガリラヤのイエシュー)



2023年2月26日

「神の前に豊かに」

犬塚 修牧師

こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 <ルカによる福音書12章13−21節>

 12章の最初には、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とか、「役人、権力者のところに連れて行かれたときは…」と、迫害や逮捕、連行の恐ろしい話が続きます。その途中で「先生、わたしに遺産を分けてくれるように兄弟言ってください」との相続相談が降って湧いてきました。緊張の場面はシラケてしまったかもしれません。主イエスが「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と返された時の心境はどんなであったことか。しかし、主イエスはここから話を続けます。いのちがかかる抜き差しならぬ場面と人間の貪欲は、水と油ではなく、表裏一体なのでしょう。主イエスは、相談者を超えて「一同に言われ」ました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」。自分のものが十分にありつつ、他人のものを欲する…むさぼりです。なくすことは不可能でしょう、しかし「注意を払い、用心」することはできると薦められます。その後に豊作となった金持ちの例えが語られます。▲用意周到、人生盤石と蓄えたその夜にいのちを失う可能性が誰にでもあります。厳粛な事実です。どうあっても依存せずには生きられない人間存在は、その時に何に依存をしているのかを知らされるのでしょう。もともと金持ちで、しかも豊作で大当たりし、蔵を建て、イケメンで容姿に恵まれ、天賦の才に頼ってうまく生きぬけられればと望みます。しかし、そうではなかったからか、恵みによって生かされる気づきがあったと思います。あらためて負け惜しみでも、強がりでもなく、もっていないことや失われる可能性ということが、真の依存先を指し示すのです。




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