巻頭言
2022年2月


2022年2月6日

「神の恵みをはばむものなんてない」

草島 豊協力牧師

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 <マルコによる福音書7章24?30節>

 一人のギリシア人女性がイエスの下にきて懇願した。彼女は諦めなかった。その姿に私たちも彼女のように強い信仰を持とうと励まされる。しかし本当にそれで良いのか。「強い信仰があれば与えられる」という信念は「信仰が弱くなったら与えられない」という恐れと隣り合わせだからだ。「それほど言うなら、よろしい……」を素直に訳すと「この言葉のゆえに 行きなさい 出て行ってしまった あなたの娘から 悪霊は」となる。挿入のような「行きなさい」を外すと「この言葉のゆえに出て行ってしまった……」。「この言葉」とは「食卓の下の子犬たちは子ども達のパン屑を食べる」という彼女の言葉。これは「ユダヤ人だけでなく、ギリシア人も神の恵みは頂ける」つまり「神の恵みを阻むものなんて何もない」という告白。彼女がそう告白したときに悪霊が去った。  私たちは、どうすれば神に認めてもらえるか、どう信仰を強くするか、と考えがち。しかし私たちは神に愛されるために一生懸命になるのではなく、神に愛されているからその愛に一生懸命に応えるのではないか。すでに与えられている恵みに対する応答だ。困難の時、大切な事が見えなくなる。自分を見失いそうになるとき、出会い、ふれあい、学び、そんなかけがえのない小さな一つひとつを、心に留めると豊かに与えられていると気づく。困難な社会、格差と排除が蔓延しているこの世界。しかし神は私たちが分かち合いの社会へ変えていくようにと促されているのではないか。そのために神は私たちをつくり、ここに教会が建て、一人一人が召された。神の恵みをはばむものは何もない。もし、はばむものがあるとしたらそれは私自身の側にある。そのはばむものをちょっとずらしたとき、そのスキマから差し込む光、変わらずに注がれている光に気づく。



2022年2月13日

「目を覚ましていなさい」

犬塚 契牧師

だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」 <マルコによる福音書13章32-37節>

 マルコ13章は、神殿の崩壊予告から始まります。『…弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」』ヘロデ王が人気取りのために建て始めた神殿は、当時にして最高の建築物でした。それは建物の役割を超えて、ユダヤのアイデンティであり、社会保障であり、生きることの基盤でもあったことでしょう。弟子たちもその壮麗さに魅了されていましたが、主イエスはその終焉を告げます。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」もし、神殿を失ったならば、どうやって生きぬくことができるだろうか…。現代の「神殿」とは何でしょうか。財産を預かる銀行か、不正をしないはずの警察か、公平に働く裁判所か、破綻してはならない年金制度か、まだ残る学歴社会か、いのちを守る医療システムか…。壊れてはならないものが、壊れるとはきっと恐ろしいことです。▲実際に紀元70年に神殿は、ユダヤ対ローマの壮絶な戦いの末に崩壊し、エルサレムは滅亡していきます。またこの同じ記事が、主イエスキリスト再臨時の終末預言としての眺めとしても読まれてきました。そんな、かつてであり、やがてでもある13章の間に、絶望の歴史が無数に散りばめられています。世の終わりのごとく、地上の地獄が広がりました。福島第一の原発事故、広島・長崎に投下された原爆、沖縄の地上戦、ルワンダ、カンボジア、南京虐殺、アウシュビッツ、ホロコースト…そして、今日を絶望していきる人たちの日常。▲主イエスは、「目を覚ましていなさい」と4度語られました。聖書の言語では、お薦めでなく、命令でした。引き受ければ、厳しいことです。半ば目をつぶっているほうが幸せな時期もあるでしょう。ずっと目を覚ましていることなどそもそもできないことに思います。もう一度読みます。上記箇所、「夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か…」時のそれぞれは目覚めて見張る門番のシフト表にも読めます。夕方の当番、夜中の当番、早朝、明け方の当番がいます。ならば、小さな提案です。目覚めているのは、代わりばんこでどうでしょうか。目覚めていることとは、「…ニモカカワラズ」の希望をいただくことだとしたら、「今日は、僕が希望を語ろう」と交代で生き合うというのはどうでしょうか。▲牧師として相談を聞くことがあります。深い落ち込みに比例して、希望の言葉を必死に探します。次の日、別の課題で深く落ち込む私に希望の言葉を届けてくれる人がいました。それでふと気づくのです。だから、順番でどうでしょう。振り返れば、そうやって、支えられてきました。今日は、僕が希望を語ろう。明日は、お願いできるかな。そんなふうに。



2022年2月20日

「メシアと告白しつつも」

犬塚 契牧師

そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 <マルコによる福音書8章27-38節>

 マルコによる福音書のちょうど半分の場所に、このメシアの告白があります。舞台は、フィリポ・カイザリア。ガリラヤ湖から北に40キロのこの場所は、皇帝アウグストスからヘロデ王に与えられ、彼は皇帝礼拝のための神殿を建築しています。その後、その息子フィリポが再建をし、皇帝(カイザル)と自分の名をつけて町の名前としました。ヨルダン川の水源地でもあるこの場所からは、ガリラヤ湖周辺のこれまでの活動地域を振り返ることができ、またその先にはエルサレムへと続く道がありました。この場所で、主イエスは弟子たちに問われます。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」。町で聞いたうわさ話を披露するのに、弟子たちは饒舌でした。しかし、質問は続きます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」しばしの沈黙が流れたでしょうか。そこで、年長者ペトロが答えます。「あなたは、メシアです。」▲地中海社会では、自分ひとりだけで自分のアイデンティティを見出すのではなく、それを明確にし、確認するのは、その人にとって意義ある他者だったようです。ならば、主イエスの質問は、弟子たちに答えさせた後に正解のフリップが用意されているようなこととは違うのでしょう。主イエスが誰であるかを共に決定づけていく共同の作業であり、その場面に人が招かれていることを想っています。▲ペトロの答えに、誰にも話さないようにと戒められたとありました。主イエスが自分をメシアであることを公言することはほとんどありませんでした。当時のメシア待望の機運の中で、人々が自分のメシア像を超えて、福音を理解することは難しかったのだと思います。ただ十字架の前の大祭司の尋問においてのみそう答えられます。もう国を力をもって転覆させ、回復させる可能性を残さなくなった時に初めてそう答えるのです。「そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。…」



2022年2月27日

「信仰のない時代に」

犬塚 修牧師

「『できれば』と言うか。信じる者は何でもできる」(23節)   <マルコによる福音書9章14〜27節>

 ある父親が、愛する息子が悪霊に縛られている事に苦しみ、主イエスのもとに駆けつけ、癒しを乞うた。主は「こうなったのは、いつ頃からか」とお尋ねになった。父親は「幼い頃からです」と答えた。ここに彼の長い苦悩がにじみ出ている。主は「その子を私の所に連れて来続けなさい(原語では現在進行形)」と言われた。ゆえに、私たちはどんな難問も諦めず、主のもとに携え続ける事ができる。▲彼は「おできになるなら、私どもを憐れんでお助け下さい」(22節)と懇願した。それに対する主の答えが23節にある。父親はすぐに「信じます。信仰のない私を助けて下さい」と叫んだ。これは一見、矛盾した言葉である。普通ならば「信じますから、助けて下さい」となる。奇跡が起こるためには、不動で強い信仰が必要と私たちは思っている。主を信ぜず、自分の方法や努力、また神以外のものに頼って生きる道は、神への不従順である。不信仰からは何も生まれない。▲だが、この父親は信仰の人であった。神を信じてはいたが、それは中途半端な一面があった。つまり「あなたが癒してくれないなら、私はあなたから離れ、別の所に救いを求めて去ります」という自己中心的であった。私たちも神を信じていても、不快な事や試練が起こると、途端に心が弱り果て、不信仰に陥る事はないだろうか▲にもかかわらず、主は、彼の悲しみと弱さを憐れみ「信じる者になりなさい。そうすれば何でもできる」と温かく励まされた。▲主イエスの宣言によって、悪霊は息子から去って行った。信仰とは、自分の未熟さを認めつつ、主イエスを信頼する決断である。また「切り替える」事である。自分の絶望的な現実だけに目を向ける事をやめ、心の向きを主に定め、永遠の愛のご計画を信じる事である。▲この息子は癒されたが、その姿は、父親が頭で思い描くような理想的なものではなかった。何と、息子は「死人」のようになり、倒れたままであった。けれども、本当の癒しはプロセスの中で捉える事が大切である。その後「イエスは彼の手を取って起こされると、立ち上がった」(27節)と続くからである。「起こされる」は「何度も何度も起こす」という動詞である。主の忍耐と愛が私たちを救うのである。苦労話でなく、何が起こったのか




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