巻頭言
2021年2月


2021年2月7日

「平和があるように」

犬塚 契牧師

そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 <マタイによる福音書9章35-38節>

(礼拝の中で、市川牧人兄の献身の証がありました。今春より神学校へ行かれる予定です。推薦状を書きましたが、教会からの送り出しと理解して、その一部を掲載します。)                推薦状         推薦者 犬塚 契 3.志願者はその生き方においてどのように主を証ししているのか 現在、知的障碍者の入所施設で働きながら、水曜日の祈り会、日曜日の礼拝を優先しています。入職の時より、クリスチャンであることを明確にしていましたが、恐らくはその誠実な働きのゆえに上司より配慮され、日勤のシフトや夜勤体制の都合をつけてもらいながら、ほぼ祈り会と礼拝を守っています。教会においては、最も若い教会役員として選出され、財務執事の働きをしています。献金の集計、記帳、入金、出金、予算案作成などは、将来、教会の働きに召されたときの訓練だと自ら捉え、職場と教会の往復で献身的に奉仕しています。職場においては、関わる知的障碍者への関心と理解、ケアのあり方について葛藤を覚えつつも、与えられた現場としてそこで神学しながら働いていました。…。 5.志願者の信仰において極端な面 熱心さがあり、よく多読しています。説教で引用される人物やその著作をはじめ…幅広く自分の歩幅にあった神学の言葉を求め探る「極端さ」ならぬ「信仰的探究心」が強いと思います。神学の大海のどこを泳いでいるのか揺れながら、時に天を見上げ、「キリストがすべて」と確認しているようです。…。 6.志願者の長所と短所 長所 知的探究心 説教を聞く姿勢 教会を大切にする 人に関心を寄せる リーダーシップが取れる 大きな声が必要な時に声を出せる 年齢に区別なく自分の意見を述べる 病んだ人への配慮と理解が深い 歴史認識の妥当性 やさしさ よく自分の学び方で学ぶ  大切な言葉やポイントを捉える  一肌いつでも脱げる準備がある 読書家 ギターが弾ける 音響機器を操作できる 物怖じしない 自分の損得で動かない 教会の歴史を大切にする 聖書の勘所をとらえる 人を悪く言わない 人の話を聞ける へこみすぎない 人の目をさほど気にしない 献身的に動くことに喜びを感じる お年寄りから愛される 人を見切らない 行動力 不機嫌にならない 福音的な聖書の読み方 断片を集めてまとめる統合力 家族を敬っている  短所  やせすぎ …。  7 志願者をどの程度推薦しますか。  まず教会があるべき姿、あれる姿を共に悩んでくれました。日本においては、将来に対する不安感が広がり、既得にしがみつくような世相の中で、彼は利他的に生きること、主イエスの弱さに依存することに心を向けてきました。今やそれは異質なのだと感じています。さらに「斜陽産業」と言われる教会に期待し、それを前線で担おうと志し、祈り準備してきました。…。 9 その他志願者について本学に知らせておきたいことがあれば …福音主義大学において聖書を学び、社会を見つめ、教師に問い、自分を主に預けようとしています。全力で学ぶ意欲のある市川牧人兄をふじみキリスト教会の祈りと共に送り出します。どうか全力で迎え、教え、「破れ口に立つ」者として整えてくださいますように。語り始めた「キリストがすべて」という告白を、ますます学びを通し、出会いを通して内には強く、外に愛をもって伝えるとおりよき管として導いてくださいますように。東京キリスト教大学の働きをお祈りしています。



2021年2月14日

「だから恐れるな?」

犬塚 契牧師

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。…体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。  <マタイによる福音書10章26-31節>

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」とは、耳に残り、心に引っかかる主イエスの言葉です。墓場まで持っていく事柄を思い起こしては不安に感じます。そして、その続き…「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とは、決定的なトドメにも思います。…そんな風になんだか恐れながら読んできました。いや、むしろ読み飛ばしてきたのかも知れません。この個所は、弟子たちが迫害に会うことの予告の続きです。ほとんど10代だったと伝えられる若い弟子たちを厳しく教育して、屈強の伝道者に仕上げるのを目標としていたわけではないでしょう。これから派遣するに、さらなる恐怖を植え付けたかったのでもないと思います。恐怖も脅しも人が前に足を出すエネルギーには結局は変わり得ないものです。むしろ、本当に大切なことは愛をもって伝えられて初めて何かが変わる可能性があります。こういう困惑の個所を読むと、静かに主イエスの真意を聞き取りたいと願います。沈むような「暗闇」の中で、ささやくような「耳打ち」で語られる言葉を聞き分けたいと思います。どうか、どうかと。▲ニワニワニワニワトリを飼っていますが、エサを狙ってスズメが入ってきます。先日は一羽、小屋の中で死んでいるのを見つけました。「一羽さえ、…父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とあるので、神の許しの故と理解すべきでしょうか。なんだか書くにためらいがありますが、「非情さ」が滲みます。迷ったスズメに、自分の姿を重ねます。他の訳を読みました。「しかしそのうちの一羽すらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない」(岩波訳)「許し」の語はなく、「父なしに」とありました。注記には、こうありました。「すなわち、地に落ちる時は神が支えつつ、共に落ちてくれる、の意」▲かつて誘拐事件の犯人の母親が残した詫び状を読んだことがあります。「許してください。私が保を産んだ母親でごぜえます。死んでお詫びがしたい、それでもお詫びには、かなわねえでしょうが、そうでもしねえといられぬ気持ちです。できの悪い子だっただけに、わしは他の8人の子供よりも、よけいに保を心配したし、かわいがってもめえりました。心が通じず、保にこんな恐ろしいことをさせてしまって。…保よ。大それた罪を犯してくれたなあ。わしゃあ、よしのぶちゃんのお母さんがよしのぶちゃんをかわいがったように、わしもおまえをかわいがってきたんだぞ。おまえは、それを考えたことはなかったかい。保よ。地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。」▲地に落ちる時は、神が支えつつ、共に落ちてくれる、とはそんな御想いであると読んでよいでしょうか。そんな御想いに弟子たちは支えらえたと信じてよいでしょうか。



2021年2月21日

「信仰を失ったヨハネ」

犬塚 契牧師

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」  <ヨハネによる福音書11章2-19節>

かつて「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」とイエスキリストを救い主として指さしたバプテスマのヨハネが、上記聖書個所11章では、実に弱気になっています。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも…」。そう問うた牢獄のヨハネに、他にあてがあるわけでもなく、探す時間も、自由もあるわけではありません。もう後がない質問でした。いや、それは質問でなく、疑いであり、不信仰でした。しかし、主イエスはそれを責められず、イザヤ書35章・61章を引用し、預言の成就が進行中なのだと答えらえました。ヨハネには十分な答えだったのだと思います。不信仰の荒地に咲く花があり、荒涼の亀裂の陰に生える植物もあります。道備えをしてきたヨハネの最後の不信仰は、はからずもメシアの輪郭を強く描く発端になりました。ヨハネの弟子たちが去ったのち、ヨハネを最大限に褒めつつ(およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった)、主イエスは続けます。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。不可解な言葉ですが、どうやら、天の国には、私たちも持つものさしではまったく測れない、真逆の価値観があるようです。旧約聖書と新約聖書の切れ目は、マラキ書とマタイ書にあるのでなく、この11章を分水嶺にしてあるかのようです。▲当時、宗教的エリートであったサドカイ派は、利権組織となった神殿礼拝に拘泥していました。ファリサイ派の人々は、それに対して律法の遵守を求めていました。そして、バプテスマのヨハネは、不正義に怒りを燃やしていたでしょう。しかし、福音の調べ、よき訪れの知らせは、全く別の方向から、天より神の御子イエスキリストを通して恵みとして流れてきました。誰も予想だにしなかった出来事でした。その神の法外さは、価値観をひっくり返すほどの事件でした。それは過去形でなく、進行形です。▲しかし、なぜそれほど圧倒されることが少ないのかと不信仰のうちにつまずいています。「笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった」のは、残念ながら私です。主イエスをないがしろに、天の国を力づくで襲い、引き寄せようとやっきになっているのではと思うこともあります。「来るべき方は、あなたでしょうか」に戻り、受肉・十字架・復活を祈りのうちに想起したいと思います。▲「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。」(1コリント1章)



2021年2月28日

「この岩の上に」

犬塚 修牧師

「あなたはメシア、生ける神の子です」 <マタイによる福音書16章13-28節>

世の人々は、イエスを比類なき偉大な人物と呼んだ。一方、シモンはイエスを救い主と告白した。イエスは「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)と応えられた。人生は出会いで決まる。もし、私達が主を信じるならば、新しい命が芽生える。その命は圧倒的な輝きを放つ。もし、私達が地上でつなぐ(禁止する)ならば、天でもつながれ、地上で解く(赦す)ならば、天でも解かれる。(19節)。このように、神は私達の心と語る言葉を重んじ、大事にして下さる。人を責めるのではなく、赦す者でありたいものである。たとえ、自分には敵を赦す愛の力がなくても、イエスによってそれは与えられるとある。▲この岩の上に建てるーーーイエスはシモンに「ペトロ」(岩、石)と新しい名を授けられた。だが「この岩の上に私の教会を建てる」の「岩」は「ぺトラ(岩盤)」である。砂地に建てられた家は、豪華絢爛であっても、大嵐や地震によって崩壊してしまう。だが、岩盤の上に建てられた家は小さくも、ビクともしない。(マタイ7:24〜27) イエス・キリストという岩の上に、人生や家庭を建てる事である。「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩(ペトラ)こそキリストだったのです」(Tコリント10:4) 出エジプトの時、民は渇きで苦しんでいた。その時、神は彼らに岩盤から水を噴出して、人生の旅路を守られた。▲私達はこの世では、小さな石かもしれないが、単なる石ではなく、巨大な岩盤から切り出された尊い石である。自分は神によって、発掘された生ける石と信じる人は、清い自信と喜びが与えられる。そして、何事が起こっても動じない強さ身につけるのである。一人の訪問者が、ある聾唖学校に来て、クラスの黒板に「神様は私を聞いたり話したりできるように、お造りになったのに、なぜ皆さんをそのように作られたか」と書いた。その瞬間、クラスは凍りつき、生徒達は残酷な問いに震えた。しばらくして、一人の聾唖の少女が静かに立ち上がり、大粒の涙を流しながら、黒板に行き、こう書いた。「然り父よ、このようになるのはみ旨にかなっているのです」(荒野の泉 著カウマン夫人)この少女の答えは深遠であり、信仰の清らかさに溢れている。彼女は天の父にすべてをゆだね切っていたのだ。私は非常に心打たれ、この少女の信仰に胸が熱くなった。この告白は教会が立つべき信仰宣言である。




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