巻頭言
2020年2月


2020年2月2日

「主イエスをいただく」

犬塚 契牧師

わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。…わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。   <ヨハネ6章22-40節>

男だけで五千人が満腹した奇跡の翌日、主イエスを求めて大勢が集いました。しかし、不在です。乗ってきた船に乗っていないこと、弟子たちもいないことなど、情報は錯綜し「おっかけ」は慌てたようです。ようやくカファルナウムで主イエスを見つけると「ラビ、いつここにおいでになったのですか」と…。「勝手に行方知らずは困ります。明日からまた飢えるではないですか。」「隠れられては困ります。あなたは国を興す人ですから。」「いなくなっては困ります。探すのも手間ですから」。人々は、パンを出す打ち出の小槌を手にしました。爆発的な生産量を誇るパン工場を見つけました。昨日より、今日、今日より明日の驚く奇跡を望みました。モーセが荒野を導いている間、毎日マナが降ったように、私たちの毎日もパンが溢れ、飢えから遠くありますようにと。▲しかし、主イエスの反応は、そっけないものでした。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」そして、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と続けます。「…働きなさい。んっ、働く?」群衆は思います。このラビは、一体どの律法を行えというだろうか。主イエスは答えます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そして、「わたしは命のパンである」と続くのです。モーセを通してパンを与えた神は、主イエスキリスト自身を人々にお与えになるつもりだと神の言葉は、新しい場面へとひらかれていくのです。そして、十字架において具現化します。しかし、この日に百を超える弟子たちが主イエスのもとから去っていきました。▲この時代、私が群衆の一人であったら、主イエスを信じることができただろうかと問うています。パン工場のごとくに神を勘違いしている者だと思います。ひどい勘違いです。見えていないのです。だとしても、「わたしの父の御心は」に触れたいのです。



2020年2月9日

「メシアなのか」

犬塚 契牧師

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。     <ヨハネによる福音書 7章37-44節>

収穫時に仮庵で過ごした農夫たちの感謝と出エジプトでの天幕生活を覚えて、さらに春の雨を期待しての雨ごいの意味を加え、やがてはエルサレムから流れる命の水を諸外国が拝して、救いの完成に至る盛大なる祭りのイメージ(ゼカリヤ書14章)までを包含して、祭りがおこなわれていました。その最終日です。金の壷にシロアムの池の水を汲み、神殿まで運んで、祭壇に注ぐ熱狂の中に、主イエスの「大声」が響いたようです。きっと、「狂っている」と思われたことでしょう。この田舎者は、祭りの意味が分かっているのだろうか…。人々が辿った重き歴史と収穫の願いのみならず、やがての繁栄の悲願まで一身に背負ってことだとしたら、常人では語れない一言です。「この男は神の子であったし、今もそうだ、と考えるか、さもなければ、狂人もしくはもっと悪質なもの、と考えるか。…そのどちらを選ぶかは、あなたがたの自由である。しかし、彼を偉大な教師たる人間などと考えるナンセンスだけはやめようではないか。」(CSルイス)続きを読むと人々の評価が割れたことを知ります。▲生ける水と宣言された主イエスは、世界の渇きを引き受けられました。それは、本当でしょうか…。7章は不思議な言葉も載せています。 「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」結局、栄光を受けるのには、磔刑の前夜まで待たねばなりませんでした。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」(17章)王として担がれる時には拒否した主イエスは、十字架の前には「時が来た」と言われます。歴史の流れが決定的に変わりました。渇いている者がいます。行って飲みたいと思います。



2020年2月16日

「世は明るさを得て」

犬塚 契牧師

女が、「主よ、だれもと言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。      <ヨハネによる福音書8章1-20節>

ヨハネ8章1-11節は姦通の現行犯で捕えられた女性の話です。初期の写本にはなかったという理由で、後代の挿入ではないかと…。どうなんでしょう。▲「これからは、もう罪を犯してはならない」で終わるこのお話の続きを考えています。彼女は、その後も姦通を繰り返しはしなかったかも知れませんが、「罪を犯さない」者になれたわけでもないでしょう。この後、無事に礼拝につながり、教会に集ったでしょうか。しかし、ほどなくして、罪の嵐に苦しみ、弱さを覚え、居場所を失い、またその交わりから遠のいたということもあり得ることです。ならば、12節の「再び言われた」とは、この女性への「再び」と読みたいのです。「わたしは世の光である」。それは、わたしは、わたしこそが、世の光であるとの宣言です。「世の光」は、諸教派の月刊誌のタイトルだったりしますが、恐ろしい言葉ではないかと思っています。照らされれば、見たくないものが見え、闇に隠れていたものが露わにされます。神の光とならば、いったい誰が立っていられるでしょうか。絶望に足る有様が両手をこぼれて、あたりを汚しています。ニモカカワラズ…朝早い神殿の境内での出来事が忘れられません。リセットポイントのようです。あの日、言い訳する言葉もでてこない者の傍らに主イエスは立ったのです。否、座ったのです。黙って、地面に書かれた文字は、彼女の心に浮かんだ弁明だった数々ではなかったかと。飢えるような困窮、甘い言葉による詐欺、究極的寂しさ、囲まれる環境による自暴自棄、無言の差別、手に平を返した裏切り…。▲世の光である主イエスは言われます。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。」(15節)



2020年2月23日

「わたしは良い羊飼い」

犬塚 修牧師

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節) <ヨハネによる福音書 10章7〜21節>

イエスは「良い、美しい、見事な羊飼い」である。牧畜業は、忍耐力と辛抱強さを求められる。野菜ならば、半年で収穫を得る事ができるが、羊はそうはいかない。大変な長い年月がかかる。羊は柔和で穏和な動物であるが、臆病さと頑固さも持っている。頑固さとは、自分が食べる野原で、草をいつまでも、食べ続けて、ついには不毛の地にしてしまう点である。そこで、羊飼いは杖と鞭で、羊を他の野原へ導く。一つの事に執着すると、羊は、そこからは離れられない習性を持っている。▲羊飼いのイエスは、私たちをこの羊にたとえられた。羊より弱い動物は余りいない。牙も鋭い爪もないのに、古代から絶滅する事がなかったのは奇跡である。それは彼らが、自分の羊飼いの声に聞き従って、生きて来たからに他ならない。羊は目も弱く、力もないので、集団生活という群れを作る。私たちは羊に良く似ている。▲命を捨てる羊飼い―イエスは私達のために命を捨てられた。それ程まで私たちを愛しておられる。この広い世界にあなたか一人しかいなかったとしても、イエスはご自身の命を捨てられたであろう。このように、その愛は本物であり、捨て身である。▲捨てる―幾つかの意味がある。(1) 置く―主の晩餐式で、私たちはイエスの血と肉の象徴である「ぶどう酒とパン」を食べる。その時、目の前に置かれているので、感謝して受け取る。主を信じて救われる道は、少しも難しくない。それは一途な決意と実践である。そして、主に心と体の中に入ってもらおう。(2)掛ける―人は皆、日毎に失敗し、罪を犯してしまう。しかし、イエスの赦しと義の衣を心に掛けるならば、私たちは完全に清められる。光に包まれた人は輝くのである。(3)投げ出す―「絡みつく罪をかなぐり捨てよ」とヘブライ書にある。イエスを着た人は、大胆に自分の重荷を捨てる事ができる。私たちを縛り付けている一切の重荷をぶん投げるのである。それは、後で取り返しのつかない悪い結果になるのではないかと、少しも恐れる事はない。私たちの主イエスは完全無欠の神であり、良い羊飼いである。自分に信頼して来る羊を見捨てる事はない。私たちにとり大切な真理は、何が起ころうとも、イエスの言葉に従い続ける事である。この世の有様、状況、環境、人の評価などをかなぐり捨てて、ひたすら主に聞き従おうではないか。




TOP