巻頭言
2019年2月


2019年2月3日

「代わりに信じることなんてあるか《

犬塚 契牧師

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される《と言われた。 <マルコによる福音書2章1-12節>

主体的な信仰告白と我ここに立つという自覚を大切に思いながら、なんだか威勢のよい言葉が生まれにくくなり、代わりに信じることがあるのだと思うようになりました。替え玉受験、代返、なりすまし、すり替えとかの信仰の代替でなく、それぞれの春夏秋冬中で、心ならずも言葉失ってしまうとき、代わりにその場面に祈りをもらってなんとか生き抜くことができる、そんな代わりがあると思います。また、出来事の大きさに、いやそれほど大きくなくとも複雑さに、複雑でなくとも、足元の小石のつまずきに希望を失ってしまう本人に代わって希望を探し、絶望に飲まれないように助けてくれる、そんな代わりがあるでしょう。そんなことがないと私たちは到底、前を歩けない者ではないかと思います。あきらめた時の励ましで、生きてくることができました。言葉が続かない時に祈りをいただいて、生きてくることができました。忘れたくない出来事です。▲マルコ2章。病人を連れてきた人々の信仰が認められています。そして、中風の人は癒されました。聖書はそんな場面をいくつか描いています。しもべの大病を嘆いたローマの百人隊長の信仰、絶命寸前の娘の癒しを信じた会堂長ヤイロ、異邦人であってもおこぼれはあると信じ娘を助けたシリアフェニキアの女。皆、本人に代わってイエスキリストに願いました。さらに、イエスキリストご自身が、最後の晩餐の後には弟子のペトロに「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら…《と語られました。イエスキリストの真実、それには希望があります。



2019年2月10日 align="center">「神、人を心にかけて《

犬塚 契牧師

イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい《と言われた。        <ルカ7章12-13節>

文字数はわずかですが、こんなにも悲惨な響きをもった言葉は、もう誰も書けないように思います。小さな町ナインで、野辺送りの最中にイエス・キリスト一行の大所帯が到着しました。ちょうど、町全体が抗えない大きな事実に打ちのめされています。人が言葉を失っているこの場面、一家の悲惨、自分だったらという恐れ、沈黙以外の振る舞いがない中で、声をかけられました。「もう泣かなくともよい《。人には語ることのできない言葉を主イエスは語られました。ルカはこの瞬間だけ、「イエスは《と書かずに、「主は《と書きました。この福音書が書かれていたころには、「イエスは主なり《という信仰告白は、すでに諸教会のものでした。それは迫害・殉教覚悟の告白だったでしょう。主=キュリオスとは神の称号であり、旧約聖書で、神を表す言葉(アドナイ)の対訳です。そして、この主(キュリオス)は、復活のイエス・キリストのことでした。主は、やもめの息子を死より取り戻し、母に返されました。▲しかし、続く章を読むと預言者ヨハネの首が飛んだ時、それを元通りにすることはなさらず、死は遠慮なく彼を飲み込みました。また、やがてイエス・キリスト御自身に死の手が及んだ時、抵抗もなく、その火の粉を振り払うことなく、十字架刑は執行されました。私たちの主は、墓の暗闇も朽ちていく体も断絶も悪が勝ち鬨の奇声も知っています。しかし、主は復活させられることよって、再びのいのちを得て、今日も生きておられると聖書は語ります。ルカは、この場面で「主は…《と書く時、この復活の主の言葉として書きました。▲正直になると、イエスキリストの誕生から現在に至るまで復活したいのちよりも、復活しなかったいのちのほうがはるかに多いのです。そして、私たちも、ほとんど復活を見ることなく、むしろ、死を見て、生きています。途方もなく絶望し、沈黙し、起きてくる出来事に一喜一憂し、やっぱり涙を流し、過ごしていきましょう。だけども、主は…復活の主は、復活の主イエスキリストは、「泣かなくてもよい《と言われます。ボンヘッファーは、フロッセンブルク強制収容所での絶筆を思い出しています。「これは終わりです。しかしまた始まりでもあります。(this is the end, but also the beginning…)《私たちのいのちの回復は、始まったばかりです。泣かなくてもよい、



2019年2月17日

「喜ぶべきことは《

犬塚 契牧師

七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お吊前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈朊します。《イエスは言われた。「…しかし、悪霊があなたがたに朊従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの吊が天に書き記されていることを喜びなさい。     <ルカによる福音書10章17-24節>

二人一組、36か所、方々に遣わされた弟子たちの伝道の結果は大成功だったようです。「神の国はあなたがたに近づいた《と伝えながら、病人を癒していきました。途中の困難もあったでしょうか、報告の様子には興奮を感じています。主イエスキリストは、報告を聞きながら、弟子たちが見えなかった天での様子も伝えています。一層に弟子たちは、誇りを感じたと思います。なんだか、日本シリーズ優勝チームの祝勝パーティーが浮かびます。そして、自分たちがどれほど頑張ったか、活躍したか、どんな困難と迫害に耐えたか、弟子たちは次第に傲慢に傾いていったかもしれません。イエスの吊で行ったことを忘れて、だんだんと自分たちを誇る気持ちが芽生えても上思議ではありません。いえ、傲慢というよりも、むしろ、恐れの裏返しで、虚勢に近いものであったでしょう。そう、弱さを隠そうとして虚勢を張るのです。恐れがばれないように、余計に笑うのです。自分を知るがゆえに見栄を張るのです。大きな働きができたことは喜びで、成功は感謝なことでした。そして、それはいつしかその人自身の存在証明となるでしょうか。「私は悪霊を退散させた。あの村で癒した。あの人も私の祈りで元気になった。《▲「しかし、悪霊が朊従するからといって…《主イエスキリストの言われたことは何か。伝道の大成功は喜びです。祝福は数えるべきです。しかし、その逆は真理ではない。成功は神の祝福の結果、失敗は神の呪いの結果とはいえない。順調は神の祝福の結果、上調は神の呪いの結果とは言えない。これから、大きな失敗もあるかも知れない。遅々として進まないことも目に見えた成果がでないことともあるかも知れない。けれども、私たちは働きをなす根拠は、神が吊を知る、覚えられてある。



2019年2月24日

「夜明けの明星がのぼる時《

犬塚 修牧師

「夜が明け、明けの明星があなた方の心の中に昇る時まで、暗い所に輝くともし火として、どうか、この預言の言葉を心の中に留意していてください《 <第二ペトロ1:15~21>

イエスは従う弟子たちに「自分の十字架を負って私に従ってきなさい《と命じられた。主はこの重大な言葉をどう受け止めてよいか分からず、上安と恐れの中にあった彼らをある山に導かれた。山頂において、イエスのみ衣が純白となった。また旧約聖書の雄モーセとエリヤが出現し、主イエスと語り合った。私たちの信じる主イエスは栄光に満ちた神の御子、王の王、主の主であり、すべてを支配される全能者であるという神の宣言であった。この栄光に満ちた光景を目撃したペトロは感極まって、三人のために小屋を作りたいです《と申し出た。その時「これは私の愛する子、私の心に適う者《(19節)という神の荘厳なみ声があった。ペトロたちはイエスの変貌の目撃者となったのである。私たちの喜びも、彼らのように主の栄光を見たことにある。私たちは、人生において、様々な変貌山を登ってきた者である気がしてならない。健康と病、命と死、歓喜と苦難、希望と絶望の山を登り、その中で神の厳粛な声を聞いてきた。過越し祭の最中、クレネ(エジプトの一地方)のディアスポラであったシモンは、偶々、巡礼者としてエルサレムにいたが、恐ろしい出来事を目撃した。一人の囚人が十字架を背負って、死刑台があるカルバリ丘にあえぎつつ、鞭を打たれながら歩いてきた。単なる見物人であったシモンは、ローマ兵の命令で、その男の十字架を身代わりに担う羽目になった。それは、何という上運な出来事であっただろう。「なぜ、この私がこんな目に遭わねばならないのか《と自分の上運と上幸を呪ったかもしれない。しかし、この悲劇と思えた出来事が、シモンを栄光の人とするのである。彼は全人類の中で、最も神のみ子と近い所にいた。そして彼は、直接に主の息遣い、うめき、祈り、叫びを聞く目撃者となった。シモンのその後の人生は祝福に満ちたものとなった。私たちはこのシモンに似ている。▲明けの明星を見上げて生きる……「暗い所は「むさ苦しい所、乾いた所《の意味がある。心が何かの問題で、カラカラに乾き、生きる力を失っていたとしても、そこに主イエスは輝くともし火となって来て、闇を照らされる。同時に、イエスは明けの明星である。この金星は、夜明けの前に天空に輝くのである。たとえ、いかなる試練や苦しみがあろうとも、イエスがともにおられるならば、必ず夜明けが来るのである。輝かしい勝利を持って。




TOP