巻頭言
2018年2月


2018年2月4日

「人を愛し、人を生かす」

犬塚 契牧師

一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。 <マルコによる福音書8章22-26節>

なぜ、段階的な癒しなのか…初回は失敗なのか…。少しだけ気になります。しかし、少しずつ示され、段階的に癒され、忍耐強く導かれたから、今日に辛うじて立っていることを思うと、静かに納得もしています。「まだ悟らないのか」(21節)という叱責と初めての信仰告白「あなたは、メシアです。」(29節)の間に挟まれた盲人の癒しの短い場面です。著者マルコもまたその間に常に身を置き、信仰告白の刷新を経験してきたのではないかと思います。時に見え、時に曇り、そして、また見える…。願わくは、「目が見えるようになりたいのです」という渇きをただもって歩みたいと思います。盲人は、最初に手を当てられた時、人が見えました。しかし、木のようでした。残念な見え方です。おそらく、木を見たことがある彼の失明は後天的なものでした。木では、十分ではありません。やはり、人は人のように見たいのです。彼は続けました。「木のようですが、歩いているのが分かります」。こんな言葉の選びに希望の響きを感じています。そして、完全な癒しを経験するようになります。▲人がどんなところを生き、何を思い、何に患い、何を痛み、何を喜んでいるのか、分かりません。なのに、一面をなぞって、曇った目で人を見ているのではと振り返っています。その気になくとも、高姿勢があるのでしょう。木に見えているでしょうか。やはり、目が癒されたいのです。主イエスが人をご覧になったように、癒された目をいただきたいのです。



2018年2月11日

「レギオンからの解放」

犬塚 契牧師

一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。 <マルコによる福音書5章1-20節>

「悪霊」の働きの説明は苦手です。人間の罪と悪霊の働きとの支配の範囲が不明確に思えるし、なんでもかんでも「悪霊」の働きと見る視点にも違和感を覚えてきました。また、一方で、聖書の「悪霊」の箇所は、精神的な病と単純に置き換えて読む人もいます。しかし、「神の国の証人・ブルームハルト父子―待ちつつ急ぎつつ」(井上良雄1996.新教出版)の最初に登場する悪霊に憑かれた女性ゴットリービン・ディトスの凄まじい様子と「イエスは勝利者なり」という言葉から収束に向かったという事実、また現代においても、アジアの諸教会で格闘する宣教師たちの報告、そして、ナチスのホロコーストや日本軍の南京虐殺、アメリカの原爆投下、ルワンダの3カ月の狂気…それらの人間の負の歴史を知る時、人の想像をはるかに超える悪の力の存在を思わずにおれません。それでも…私自身と言えば、「イエスキリストは悪霊の1000倍強い」と岸義紘先生が書かれているのをいつしか読んで、ならばと「悪霊」に関する興味を避け、そのフォーカスを主イエスキリストに向けてきました。おそらくなおしばらくそう生きると思います。▲どんな悲しみか、病か、悪霊か…人々と一緒に生きることができなくなった人が登場します。人々の間には、彼の居場所はありませんでした。彼は、墓で暮らしています。日々の彼の食事は、家族・身内の者が運んできたのでしょう。地球はこんなにも美しく、世界は見歩けぬほど広いのに、どこにも居場所が見つけられず、共に生きていくことができないというのは、他人事に思えない話です。▲前の4章。異邦人のこの地に来るのに、船は大変な嵐の中を通ってきました。出会った後も彼は、「かまわないでくれ」とイエス一行を追い返そうとします。湖の向こう、異邦人の地、街外れの墓場、「レギオン」(大勢)と言われる手のつけられぬ混乱、どこまでも硬くなった心…あらゆる否定的な壁がありました。壁を超えるのも壊すのも容易ではありません。しかし、「神の国は近づいた」のです。主イエスの言葉がそこにも届くとしたら、それは当たり前のことではありません。「当たり前」では、救われ得ないのは、この人だけではありません。当たり前では福音は、私の目の前で止まってしまいます。福音は当たり前ではない、法外な響きです。



2018年2月18日

「岩のかけらを生きる」

犬塚 契牧師

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 <マタイによる福音書16章13-20節>

弟子たちにとって、人々がイエスキリストについてどう噂しているのかを報告するのはたやすいことでした。巷で聞いたその報告には、さしたる重さも言い難さもありません。彼らは、そのままを言い合いました。きっと弟子たちは、多弁です…「こんなことを聞いたよ…洗礼者ヨハネとか…エリヤとか」、「いや、私は、エレミヤだと言っている人と会った」とか「預言者」とか…。しかし、イエスキリストの質問が続きます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」それでは…しばしの沈黙があったでしょうか。みなが下を向きます。そこで、年長者ペトロが、いつものように口火を切りました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。ペトロの答えは、このフィリピカイザリヤという異教の地において勇気ある言葉であり、何よりもふさわしいものでした。しかし、ペトロが素晴らしかったのではないと続けて書かれています。イエスキリストは言われました。そのことを現したのは天の父だと。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」ここで、つけられた名ペトロ(岩)とは小石の意であり、続く「この岩」とは、主鉱石、巨石を指しています。知らされることがあります。ペトロの告白の強さに教会が建てられ、それが盤石へとつながるのでありません。告白に導く父の愛こそ信頼にたるものです。陰府の力も対抗できない屈強な告白が褒められているのではありません。大きな「岩」から取られたひとかけら故、その関係故に教会があるのです。ペトロは、この出来事のすぐに後に、イエスを諫めようとして、「さがれ、サタン」と叱られるということが起きます。さらに恐れを覚えて、湖に沈みもしました。十字架の前には、主イエスを3度否定するような歩みがあります。なのに、神が選ばれた岩のかけらゆえに、それは守られるのです。ならば、わたしたちにも希望があるではありませんか。



2018年2月25日

「死から命へ」

犬塚 修牧師

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。 <エフェソの信徒への手紙2章1-10節>

聖書は人間理解には二つの視点が必要と語る。第一は、人間のすばらしさ、美点の再発見であり、これも非常に大切である。現代人は劣等感、疎外感、無価値感に悩む傾向が強い。だが、これだけでは、片肺飛行に似て危ない。私達はいつしか傲慢になり、道を誤る危険性があるからである。もう一つ人間の惨めさ、欠点、罪などを知ること。この二つを凝視する事によって、本当の自分が見えてくる。パウロは「私はその罪人の中で最たる者です」(Tテモテ1:15)と述べている。罪とは「的外れ」の意味である。つまり、創造主の無視である。パウロはこの人間の傲慢さが死をもたらすと警告する。▼私達の罪のため、キリストは命を捨てられた。その深い愛のゆえに。私達は救われ、死から命へと引き上げられた。創造主からの逃亡が精神的な死の実相である。「命」とは神との交わりである。イエスを信じる人は、神の命につながれる。▼「命の道」は神と共に生きる事である。(1)「イエスと共に生かし」…この「生かし」は「湧き出る温泉のような神の恵み」の事である。これは永続的なものであり、いかなる障害、誤解、苦しみを乗り越えさせる神の偉大な力である。従って、どんな危機的な時でも、主に祈り、その無限の御力と助けを信じ続ける事が肝要である。(2)「共に復活させ」…私達は日々、死に向かっている。今の姿が、いつまで続くものではない。だが、復活のイエスが共であれば、死の恐怖に支配されない。復活の主が、私達の所(陰府のような最悪の場)にも、下り「恐れるな、安心しなさい」」と力強く語りかけられる。(3)「共に天の王座に着かせられる」…天は神の王座がある聖なる栄光の場所である。そこは神が臨在し、かつ私達の魂の故郷である。将来にそうなるというだけではなく、現在、完全な守りが与えられている。




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