巻頭言
2017年2月


2017年2月5日

「だから恐れるな」

犬塚 契牧師

だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。 <マタイによる福音書10章31節>

 対人恐怖症、高所恐怖症、閉所恐怖症…時々に聞く以外にも文字恐怖症、良い知らせ恐怖症、ポエム恐怖症、学校恐怖症、人形恐怖症…いろいろと恐れの対象があるようです。本来、恐れなくともよいものを恐れてしまう恐怖症のリストを眺めて、人は恐れと共にいつもあるのだと改めて知らされます。マタイ10章「恐れるな」と主イエスが3度弟子たちに伝える場面です。これは、恐れを覚える弱き心の叱咤でしょうか、それとも、恐怖症克服のきっかけでしょうか。▲前の箇所は、弟子たちへ迫害の予告でした。「狼の群れに羊を送り込むような」と表現される迫害を想像すると、狼の餌になる以外に道のない「絶対絶命」に思えます。まだ若き弟子たちにそんな修羅場を伝える主イエスの心を考えます。いつもの冗談もユーモアもこの時は出番がありません。聞く弟子たちの蒼白の顔が浮かびます。しかし、主イエスの言葉は、「恐れてはならない」「恐れるな」「だから、恐れるな」と続くのです。▲遠藤周作原作の映画「沈黙」を見ました。今も苦しむ迫害下のクリスチャンたちの有様を聞きます。ルワンダにしろ、イラク、シリア…世界にとめどなく広がる狂気の虐殺を聞きます。阪神・淡路や東日本においても、生活が瓦礫と変わる災害の悲鳴を聞きます。私たちの周りにおいて、突然の病の告知を聞きます。そして、死の訪れをみます。私たち人間が言葉を見つけらない、言葉をなくすそんな時。本当の神ならば、そんな時に語るべき言葉をもっていてほしいと思います。人の言葉が届かないそんな場所で、神は、そこにどんな声を用意くださるのでしょうか。 少しの時間が流れて、少し癒えれば人は言葉を探せると思います。「人生は苦あり、楽あり」「人生は諸行無常」「人生は試練の連続だよ」「人生ははかないよ」「人生は、イロイロ」…。人はそう語り、そう歌ってきました。しかし、人が絶句をする場面で、人の心になんの答えも気休めも届かない場面で、主イエスはなんと言われたのか。「恐れてはならない」「恐れるな」「だから、恐れるな」 三度繰り返されたのです。それは、人が言うことのできない、神の言葉です。



2017年2月19日

「両手を広げて」

犬塚 契牧師

ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 <マルコによる福音書7章>   

 人物に焦点を当てたよいドキュメンタリーを見た後に、さらにその人を調べると違う側面を見つけたりして、少しガッカリすることがあります。上手に編集した監督を褒めるべきか、人は英雄視してはいけないと教訓を得るべきか、そんなことを考えます。マルコ7章、イエスキリストの裏の顔が報告されているような場面です。娘の病のために本当に途方に暮れて、すがりついて来るお母さんに対しての侮蔑的な表現が書かれています。「…子供たちのパンをとって、子犬にやってはいけない。」イエスキリストは順番を大切にされました。その歴史の中で、神の介入があり、出エジプトを果たし、律法が与えられ、預言者が遣わされ、救い主の待望を待ち望んだイスラエルの民こそまず福音を聞くべきだと…。弟子たちもそう思ったようです。ところが、このギリシャのお母さんは横入りをしようとしている…。▲このお母さんの反応は2つ考えられたと思います。「犬とは何よ!弱みに付け込んで、言いたい放題。なにがイエスよ。弟子たちもお馬鹿で冷たいし、イエスもただのろくでなしだわ。」という怒りの反応。もう一つは、「犬ね…。それがふさわしい呼び名かも知れないわ。子どもが病んでからずっとそんな所を生きて来たわ。結局、明日も、明後日も変わらない日が続くのね」という悲しみの反応。しかし、彼女がした反応はそのどちらでもなく、「主よ、しかし、食卓の下の…」と答えるのです。彼女のユーモアとか機転が褒められることがあります。しかし、彼女のイエスキリストへの信頼と自己放棄こそ驚くべきことだったように思えます。あなたは本当に私で十分なのかという問いかけに、その全身でそう応えました。



2017年2月26日

「御父と御子との交わり」

犬塚 修牧師

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。 <ヨハネの手紙T1章1〜4節>   

「私達の交わりとは、御父と御子イエスキリストとの交わりです。」(4節)   私達が幸せな生き方をするためには、隣人と良いコミュニケ―ションを持つ事が大切です。相手の長所も短所も受け入れつつ、円滑な交わりを持てる事はすばらしいです。もし、互いに溝のようなものを感じ、自分の真意も相手に伝わらず、誤解を与えたままで生活すれば、人生は苦しく悲しいものとなります。では、どうしたら、喜びの交わりが可能になるのでしょうか。▼ヨハネは、まず、神との良い関係を第一番目に重んじる事が必要なのだと説きます。これができれば、他のものは添えて与えられるのだと。美味しい魚を冷蔵庫に入れていても、期限が過ぎると、腐ってしまいますが、「真空パック」の中にある魚は、いつまでも鮮度を保つ事ができます。そのように、「神と私の間には何物を入れない」という生き方を開始する事です。何よりもみ言葉を重んじ、祈りを怠らず、心を一つにして神を礼拝して生きるならば、必ず、祝福は大河のように流れてきます。▼御父と御子と私達の交わりは三角形に似ています。図形の中で、三角形が最も強固である気がします。この三角形のような神との緊密な愛の交わりを持つ事こそが、深刻な問題の解決の鍵となります。▼御父と御子との交わりの実例ーーー「嵐のガリラヤ湖上のイエス」の姿がマタイ8:23〜27に記されています。この湖に主と弟子達が船出したのですが、途中で大嵐となり、舟は今にも転覆しそうでした。弟子達は必死で、転覆しないように頑張りましたが、それも限界に達し、死の危険が迫りました。ところが、イエス様は眠っておられたのです。彼らは「主よ、助けてください。溺れそうです」とパニックとなって叫びます。主は起き上がって「風と湖」を一喝されると、すぐになぎになったのです。彼らは圧倒的な主の力に非常に畏れたとあります。▼なぜ、イエス様は眠っておられたのでしょうか。「危機的な時は、先頭に立って戦ってくれないと困る!」と弟子達は思ったでしょう。主はわざと眠っているふりをしておられたのでしょうか。決してそうではありません。イエス様は心底、疲れ切っておられたのです。その熟睡される姿は、人間としては一番無力な姿です。しかし、これは御父への絶対的な信頼を示しています。即ち、その眠りの意味は、たとえ、いかに人生に嵐が吹き荒れていても、御父はその唯中でも、必ず守られる事を確信しておられたのです。私達も様々な事で疲れ果ててしまう時があります。だが、その時こそ、イエス様の姿を思い出しましょう。私達も疲れた時は眠り、一切を御父に任せて良いのです。そうすれば、再び力はみなぎり、再び動き出す事ができます。主はご自分に従う者に、予想以上の祝福と最高の結果を与えて下さいます。




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