巻頭言
2016年2月


2016年2月7日

「イエスのまなざし」

草島 豊協力牧師

 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。… <マルコによる福音書10章46-52節>

 今日のテーマは、「私にとって、イエスとは何者か?」「弱さに寄り添うとはどういうことか?」。私が北星学園大学チャプレン(大学付牧師)をしていたときのこと、大学礼拝でうまく語れたといい気になっていたら、ある学生から私のメッセージは「いつもほっとさせられて好きだが、あのときは自分が責められているようで苦しかった」と告白を受けた。クリスチャンが犯しがちな問題を指摘しながら、自分こそ傲慢であったことに気づかされた。聖書が描く世界は、読む視点、読む人の立場でずいぶんと異なって現れる。福音書は4つあり、描かれているイエスの姿に違いがある。それは不完全な人間がイエス・キリストを多面的が知るようにできるように、という意味。私の信じるイエス像は「どうしようもない人間に寄り添う方」。するとこの聖書箇所はどんな物語か。  この物語では、イエスに憐れみを呼びかける切実な盲人の姿が描かれている。彼がこれまでどれほどの苦しみを抱えてきたか。当時、目が見えないことは、その人か家族親族の罪が原因とさえ考えられた。バルティマイの叫びは「わたしの苦しみを分かってくれ」という叫び。イエスは大勢の群衆の中から、そのバルティマイに目をとめ、彼の心の叫びを聴いた。私たちも盲人バルティマイの苦しみを真剣に想像しようとする、そのときに気づく。どれだけ理解しようとしても、その人の苦しみを理解することはできないことを。しかし自分の無力さに気づいたとき、彼の叫びに共感する一歩を踏み出すことができる。それは自分の心の叫びに耳を澄ませることによって。私たちは日常生活では意識せずにふたをしている心の叫び、キズがある。盲人バルティマイは、私たちの導き手だ。彼はイエスに向かって、恥をかなぐり捨てて叫んだ。叫ぶことができた。みっともない盲人バルティマイの姿は、わたしたちの傷ついた心の姿でもある。私たちも自分の苦しみをイエスに向かって叫んで良い。それをイエスに隠さずに打ち明けなさい、叫びなさい、その声は必ず聞いて下さる。そうこの箇所は語っているのではないか。



2016年2月14日

「私は信じております」

犬塚契牧師

「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 <ヨハネによる福音書11章>

 ラザロの復活の場面。ヨハネ福音書の真ん中、この福音書の最後の奇跡。墓の前で流されたイエスの涙。なんだか不思議で深いの聖書箇所。▲11章で唐突にマルタとマリアが登場しますが、福音書が読まれた時代の教会には馴染みの姉妹だったのかも知れません。聖書中にこの姉妹の両親が登場したことがないので、若くして亡くなり、それ以後、マルタとマリア、ラザロの3人でおそらくは貧しさを生きていたのではと言われます。ならば兄弟ラザロが病で死に近いとは、ことば見つからない出来事です。死後3日間は魂が離れ切らず、肉体のそばにあると考えられていました。イエスキリストの到着した時、死後4日が経っていました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と姉マルタが伝えますが、決定的で絶望的な響きがあります。11章を最後まで読めば、神であるイエスキリストの声でラザロは復活しますが、不思議なのはその前に流されたイエスキリストの涙です。数日遅れて颯爽と登場し、人を安心させるような笑顔で慰め、こともなげに復活させたのでなく、この有様の前で涙を流されました。這うように地を生きる有限な人間と曇りなき神の栄光の間には、無視できないようなジレンマがあります。死んだラザロの今がどうであるのか神であるイエスキリストには分ったことかもしれません。しかし、におい始めた墓の前でそれを知りえない姉妹たちとの間を埋めるには、イエスの涙が必要でした。▲マルタが語った「もし、ここにいてくださいましたら…」とイエスキリストの行った「しかし、それでも…」の間は、私たちのとっても涙の隔たりがあるように思います。だからこそでしょうか、イエスキリストの言葉になおなお耳近く聞く者でありたいと願うのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」



2016年2月21日

「起こり得るという安心」

犬塚契牧師

「天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故 郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば…。」          <創世記24章>

 12章から始まったアブラハムの物語は、24章あたりで静かに終息していきます。そして、イサクの物語が始まります。24章、アブラハムがイサクのお嫁さん探しを「年寄の僕」にお願いする場面です。カナンの娘で はなく、アブラハムの故郷で少なくとも彼の信仰の歴史を想える人から選びたかったのでしょう。「年寄の僕」を遣わすに、アブラハムが語ったことは不思議です。「天の神である主」の約束がある、またみ使いも行く手で支えるから、大丈夫だと語りながら、「もし、女が従ってこちらへ来たくないと言うならば…」とも語るのです。神の守りを伝えながら、そうではない可能性も示しています。アブラハムは果たして、信じていたのでしょうか、疑っていたのでしょうか。▲信じるとは一切の疑いが締め出されて、確信を得ていくというものではないのだろうと思います。私の内には、届かぬ「確信」への脅迫的な渇望がありましたが、よくよく心を吟味してみるとさっさとそれを得て、楽になりたいという自分の都合の優先がありました。それは、神への礼拝と賛美に繋がる道ではありません。信じるとは、自分の心と気分を超えて、神が語られる「呼びかけ」を、ならばそう信じて生きてみますという「応答」で応えるものに思えます。地に悲しみの涙が満ちたり、理解されないことに悩んだり、上手に運ばないことに疲れ、力を奪われたとしても、聖書は最初に語ります、「神は世界をよいものとして造られた」と。ならば、そう信じて…と応答する心をいただきたいと思います。きっと、気持ちは後からで構わないでしょう。「確信」はやがてで構わないでしょう。老年のアブラハムに、神がおられるならば何をも起こり得るという安心をみます。


2016年2月28日

「滅びと救い」

犬塚修牧師

「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを私たちは待っています。」 <フィリピの信徒への手紙3章17〜21節>

 パウロは、かつては教会の迫害者であり、キリストの十字架を敗北のしるしとして忌み嫌った。彼はイエス・キリストを救い主と信じない、極めてプライドの高い人であり、自分の考え方、信念を正義としていた。自分には、他者の人生を左右する程の神のように影響力があると信じていたように思えてならない。このような自己絶対化、自己正当化を「肉」という。▼肉とは、キリストに従わない不従順さ、霊とはキリストに従う従順さである。この二つは水と油のように分離し、一致しない。世界は「肉」に支配されやすい。狡猾に人心をだまし、悪を善、善を悪として「洗脳」していくのが肉の特徴である。パウロは涙を流しながら「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神として、恥ずべきものを神とし、この世のことしか考えていません。」(19節)と記している。当時、肉の人は「キリストの十字架プラス・アルファ」を主張し、割礼、民族的伝統、議論や争い等を好んだ。その結果、原始教会は混乱した。▼パウロの信仰は「キリストの十字架」のみを信じるものであった。「プラス・アルファ」に気を付けねばならない。「人間的な才能、実力、努力、実績、社会的地位、、経歴、業績等」はすべて目に見え、魅力的であるが、パウロはこれらを「塵芥」と呼んでいる。「キリストを知る絶大な価値のゆえに」これらの華やかな「肉」は何の価値もなく、むしろ損失と断じている。なぜならば、これらは「隠れた偶像」になりやすいからである。▼パウロは、天に目を向ける。「天」は神のあわれみと恵みが降り注ぐ自由、かつ霊的な世界である。特別な人間だけが誉められるような奴隷的、差別的な狭い領域ではなく、神の栄光だけが賛美され、聖霊による新しい世界が再創造される所である。▼主から離れるならば、滅びは忍び込み、人生は暗転していく。主への不従順は危険を招く。たとえ一時的に物事がうまくいっても、つまずきや苦悶が待っている。何よりも「キリストを得、キリストの内にいることを認められる」(8〜9節)事を喜びとしよう。「認められる」は「探し出される」の原意である。主は私たちを滅びから探し出された。故に、私たちの真の価値は、主に発見された事にある。ルカ15章に登場する放蕩息子が、惨めな姿で父のもとに帰った時でも、無条件に赦された喜びは、天に上る程のものであっただろう。私たちの喜びもそれと酷似している。




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