巻頭言
2015年2月


2015年2月1日

「時、待ちながら」

犬塚 契牧師

 ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 <マルコによる福音書3章7-12節> 

 前章2章には、政治的、宗教的指導者たちのイエスへの殺気が描かれて終わっています。命が本当に狙われていました。嫌な空気です。しかし、イエスは、争わず、戦わず、そっと場所を変える、退却をしました。命、狙う人たちもいれば、追ってくる人たちもいました。時代の飢え渇きゆえ、洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼も人気があって、方々の町から多くが集いましたが、イエスのもとに来た人々の範囲はさらに広い地域でした。癒しの奇跡のインパクトがあり、押しつぶされそうになるくらいでした。嬉しい悲鳴どころでなく、実際に危険だったのでしょう。人波溢れる場所で、人々が将棋倒しになったニュースを思い出します。イエスは弟子たちに小舟を用意させ、岸を離れました。きっと、ゆっくり伝えるため、教えるためでした。マルコ4章にもルカ5章にもそんなシーンが出てきます。それにしても、それは癒しを望んで来た人たちの期待を裏切る行為に思えます。癒されたいのであって、聞きたいのではありません。少しでも触れるためであって、学ぶためではありません。得る者を得て、そっと去る予定です。実際、イエスが十字架に架かる時までには、一人残らず去っていました。それでも、この箇所からイエス・キリストが大事にされたことを考えます。この「おびただしい群衆」の箇所は、不思議な箇所とセットになっています。すぐ後に、汚れた霊が「あなたは神の子だ」と言いあてた時、それを黙っているように命じた箇所が続きます。単路なる余計な広報はいらないのです。一緒に旅をし、暮らした12人の弟子たちですら「いったい、この方はどなたなのか」と思い続けました。彼らが本当に知るのは、イエスの復活後です。ハイタッチして癒されて終わりの接点でなく、神の子なるイエスを知らされ続ける幸いがあります。



2015年2月8日

「えっ・・・」

犬塚 契牧師

 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。・・・ <ルカによる福音書7章36-50節> 

 ほとんど条件反射のように、強いか弱いか、正しいか誤りか、美しいか醜いか、の判断を付けて生活しているので、当時に生きていたら、私はファリサイ派(分離派)に近かったと思います。ルカ7章のシモンもファリサイ派でした。この人の食事の誘いを受けて、イエスキリストが出かけてくださったので、なんだか一つ救われる思いがあります。体、横にして足を投げ出しながら食べている最中でした。オープンな造りの家に人が出入りすることは珍しいことではなかったと思います。それでも町で有名な罪深い女が入って来たときにはみんなが「えっ」と思ったことでしょう。彼女は、イエスの足元に近寄り、涙を流し、髪の毛で拭い、接吻して、香水をつけました。そうされるのをそのまま受け入れられました。かつての預言者ならば、「さわってはならない!」と語ったでしょうか。その場にいたシモンだけでなく、イエスがそろそろ気付いて、女性を諭す瞬間を待ちました。しかし、「シモン、あなたに言いたいことがある」と語られたのでした。▲この女性は、イエスの会堂での宣教、湖での話、数々の噂、人の証言を聞いてきたのかも知れません。47節は解釈の難しい難問だそうです。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」・・・うーん、彼女は、赦しを知って喜びのあまり涙が止まらなかったのか、それとも罪を知らされて、切実に赦し乞うために涙を流したのか。どちらなのだろう。明らかに白い目でみられるところに出かけ、拒絶されるかも知れない涙と香水を持っていくなんて、できるだろうか。もし、シモンはともかくイエスに拒絶されたらと考えると…いやー、勇気がでない。▲CSルイスが書くように、人間の最大の罪が、傲慢ならば、むしろシモンの根の方が深いように思えます。シモンだけ名指しです。「この人を見ないか」。神が愛が響くのは、罪人の心です。



2015年2月15日

「ふっ・・・」

犬塚 契牧師

 神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。    <創世記17章9-22節> 

 割礼とは、男性の性器の皮膚を伸ばして切ることで、生殖器を清潔に保つためという衛生面からアフリカやアメリカ、韓国でも現在も行われているようです。オギャーと生まれて、へその緒と一緒に切るのでなく、大人になってからの割礼はうんと痛かったと思います。アブラハム、99歳でした。数週間は動けなかったでしょう。15章にも神とアブラハムの契約の箇所があります。そこでは、神のみが二つの裂かれた動物の間をぬけました。もし、約束が破られるようなことがあれば、この動物のように二つに裂かれてよいという契約の仕方。通ったのは神のみで、アブラハムにとっては、一方的な契約であり、恵みの時でした。しかし17章の契約には、割礼が求められたのです。体に痛みが走り、傷が残りました。神との契約に、今回は無傷ではいられなかったのです。それでも、その傷を見るごとに思い出したのでしょう。たとえ、自分の弱さに落ち込むようなことがあったとしても、不信仰の歩みの中を進むにしても、なおも神の恵みの中に置かれていることを確認していいったのです。無くならない傷によって、変わりなく神の民であることを知らされるのです。▲使徒パウロは、イエスキリストを信じる人は、異邦人も割礼をすべきか否かの問題で、ノーと答えました。パウロ自身は割礼をしていましたが、他に強いたわけではありません。ただの切り傷に過ぎないような、割礼を軽んじました。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6:1)と語っています。新しい視点で傷を眺め、その場こそイエスキリストが共におられるところとして、共に痛みを生きていく。「プロの洗礼を受ける」という言葉ありますが、むしろ、「割礼」のほうが近いと思います。それぞれに割礼なるものをいただいています。目を上げて見るならば、おそらくは神の約束と慰めがこぼれる裂け目です。



2015年2月22日

「「忠実な良い僕」

犬塚 修牧師

 「忠実な良い僕だ。よく やったお前は少しのもにであから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」 <マタイによる福音書25章14-30節> 

 自分と他者を比較して、傲慢になったり、また逆に卑屈になったりする事はないだろうか。華麗で多くの才能や実力を持つ者に対しては、ひがみ、自分が無価値な者のように思えてしまうものである。しかし、実は神は信じられない程の巨万の賜物を、私達一人一人に例外なく与えておられるのである。主人は3人の僕に5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けられた。この1タラントンは約5000万円にも達するという途方もない金額であった。これは経済的な意味よりも、神が私達に授けられた無尽蔵の祝福を意味している。ゆえに誰も「私は何も持っていない。また、人よりも不幸だし、劣っている。」と悲嘆してはならない。その恵みの巨大さに驚嘆する事が私達の発想の原点である。(ロマ8:35〜39、Tコリント3:21〜23参照)▲5タラントンの僕は、その財を用いて一生懸命に働いた。彼は失敗を恐れずに誠実に行動し、ついに豊かな成果を得た。2タラントンの僕も同様であった。彼は5タラントンの僕を妬み見る事もなかった。主人を喜ばせる事が、霜へにとって唯一の望みであったからである。主人は5タラントン(2億5000万円)を主人は「少しのもの」と見なされた。なぜか?それは主を信じる者が、天国に帰った時に与えられる報いの巨大さに比べるなれば、僅かなものに過ぎないからである。▲また「良い」には「目に見える美しさ、善行」ではなく「人の目に隠されている美、結果」という意味がこめられている。私達の真の評価とは、この世における人々が賞賛によるのではなく、たとえ誰も知らなくても、主がその人の懸命な努力、心根、真実さ、忠実さによるのである。▲しかし、1タラントンの僕は主人を誤解して、不信感を抱くという重大な失敗を犯した。「主人は厳しい方であり、万一失敗を犯したら、「お前の責任だ」とし責める恐ろしい暴君と思い違いをしていた。そして、大金を土中に埋めてしまった。この怠惰な行為は主人の心を怒らせ、また悲しくさせた。私達は主から任された賜物(才能、財、時間、奉仕等)を主に捧げて生きたいものである。主は私達のまじめさ、忠実さを決して忘れる事なく、必ず豊かな報いを与えて下さる。




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