巻頭言
2014年2月


2014年2月2日

「権威の一喝」

犬塚 契牧師

 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」   マルコによる福音書 1章22-25節

 イエスキリストがホームとしたカフェナウムの会堂での出来事。礼拝の場、政治の場、教育の場であり、人々の生活の中心だったその場所で、人々は新進気鋭のラビ・イエスの話に驚いた。「律法学者」のように話をしなかった。律法学者とは職業ではなく、あくまでも一信者として、律法や解釈を学んできた人々である。時代と共に変わる生活様式に合わせて、律法もまた再解釈される必要があった。人々はそれを会堂で聞き、生活に根付かせていた。律法学者たちは、あるラビの話を引用し、他のラビの話を織り交ぜ、これまでのラビたちの解釈を紹介し、今の出来事に照らして人々に説教したのだろう。しかし、イエスキリストはそれら一切を飛び越した。「あなたがたはこう聞いている…しかし、わたしは言っておく」と話した。自分の語ることを律法と同じか、それ以上のものとして語られた。聞いていた人々は目を見開いて驚いたことだと思う。カフェナウムの会堂でイエスの話を聞きながら、その権威にいても立ってもいられなくなった人が叫んだ「ナザレのイエス、かまわないでくれ」。突然の出来事、きっと礼拝は中断された。▲昔はこの箇所を厳粛な礼拝に招かれざる乱入者が現れたように読んでいた。しかし、彼も最初は礼拝をしていたのではないかと読むようになった。イエスキリストの権威に「かまわないでくれ」と叫ばせるほどの迫りを感じたのだと。彼は礼拝者の一人であり、会堂の代表ではなかったかと。ならば、「かまわないでくれ、ほっておいてくれ」とは、迫りに怯え切られる前に切ってしまおうと私の内にもこだまする言葉と同じではないのかと。そして、イエスキリストはもう一度権威をもって一喝される。「黙れ」と。



2014年2月9日

「溢れ出した涙」

犬塚 契牧師

 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」…イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、ごらんください」といった。イエスは涙を流された。 ヨハネによる福音書11章

 最近を振り返って、二つのイメージの間を生きている。一つは宇宙飛行士が、漆黒に闇に浮かぶ美しい青い星を眺めながら、歴史上あらゆるの戦争や事件、事故、災害、憎しみ、悲しみ、妬み、愛、許しは、すべてあの星で起きたのだと振り返った日のこと。もう一つは、地球で起こり巡りめくことはそう簡単に単純化され得ないという日常。行き詰まった時には、宇宙大の客観性をもちたいと思うし、ときどき慰められる、そして同じくらい小さなことにも心が裂かれ、小石に躓く。▲ヨハネ福音書のちょうど真ん中、死人の復活という奇跡の頂点でもある11章のラザロ復活の場面。働き者のお姉さんマルタはイエスキリストに信仰を告白した。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの…」。同時代に生きた他の何人が同じ告白をできただろう。それでも、兄弟ラザロを失ったマルタの涙は乾かなかった。復活の約束と喪失の間を生きるのには、涙が必要だった。▲イエスキリストは、「あなたの兄弟は復活する」とマルタに語られた。これから起こることが神の栄光を表すことになるとも言われていた。ならば、二人の姉妹に出会った時には、ニッコリと白い歯を見せ笑いながら、さぁもう大丈夫!と語った方がよかったのではないかと思う。しかし、実際は「イエスは涙を流された。」▲イエスキリストの涙は、こんなにも人を苦しませる死に対する怒りと言われる。今まで、そう理解してきた。今日は、栄光と喪失の間を生きる小さな信仰者たちへの寄り添いではなかったかと読みたい。結局、それは大胆なる栄光に続いた。



2014年2月16日

「これからだよ」

犬塚 契牧師

 神はヤコブに言われた。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその 地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための 祭壇を造りなさい。」ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。 「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えな さい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答 え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」 創世記 35章

 弟ヤコブのべテルから出て、べテルへ向かう旅の終わり…。前章34章、べテル手 前のシケムで足踏みしたヤコブ一家に、娘ディナの辱めという哀しみが襲い、兄 弟の激高は地元住民の虐殺へつながった。ヤコブはどう感じていたのだろう。子 どもたちの蛮行、親の権威の失墜、正しい言葉がでてこない自らの弱さ、「生き る」の混乱、共感性の欠如、神の約束の行方…。絶望が許されるのならば、この 時のヤコブではなかったか。ヤコブの生涯を思い起こし、34章を読み直して、あ らゆる否定の言葉が彼の心を占めたと想像する。そして、35章。神様は、ヤコブ を礼拝に誘われる。「神のための祭壇を造りなさい」。ヤコブは、「これからだ よ」という神の言葉に従って、家族が持っていた偶像を一切捨て、もう一度礼拝 の場に戻った。「幸い」の始まりだった。不思議にも35章には、ヤコブにとって 大事な3人の死が記されている。母リベカの乳母デボラ、愛する妻ラケル、かけ がえのない柱である父イサク。どれも、再びの礼拝開始の後に起きたことであ る。「礼拝の開始」は、即、祝福の開始ではないのだろうか。変わりなく困難が あるではないか。それでも、ヤコブに大きな変化があった。最後の子の出産時に 死んだラケル。苦しみゆえ、ラケルは、「その子をベン・オニ(わたしの苦しみ の子)と名付けたが、父はこれをベニヤミン(幸いの子)と呼んだ。」 ▲苦しみ の子でない、幸いの子と呼んだヤコブに起きたことは、石がパンに変わるよりも 奇跡だと思う。



2014年2月23日

「全能の力によって」

犬塚 修牧師

 「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(22節)  マタイ21:12〜22

 このみ言は私たちに喜びと希望を抱かせてくれるが、そのためには通るべき「狭い門、細い道」がある。それは主になさる事をすべて受け入れ、少しも疑わない心で生きる事である。ここで主は「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば」と言われた。主の深遠なご計画とみ業を確信し、自らの計画をすべて主にゆだねたいものである。疑わない心の模範は子供、幼子、乳飲み子である。彼らは全身全霊を傾けて親の愛を求め、命がけで信頼する。その必死の姿は私たちの心を打つ。▲主は「宮清め」をされた。神の宮は元々、祈りの家であったが、次第に祈りは軽んじられ、人間的交際の場、また喧噪と商売の場所となっていった。そこでは必死で主に叫ぶ生き方は失われていた。主は神殿を利用して、金儲けに走る者たちを追い出し、心から救いを求める人々を癒された。それは「盲人、足の不自由な人々、また幼子たち」であった。彼らは自らの弱さ、悲しみをよく知っていて、それ故に何としても神の助けを懇願していた。▲私たちの心も神の宮に似ている。もし心の中に不要なもの、雑多なものが乱雑に置かれていたならば、それは不幸で間違った状態である。これらのものが除去される時、心は癒され、健康になっていく。思い煩い、不安、心配、欲心、疑い、虚栄等、まだ心に残っているものを捨て去る事である。「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる」(コへレト7:29)とある。様々な問題で悩み、苦しみ続けるといつしか心は病むようになるだろう。▲豊かな人生を過ごしたいと願うならば、主のみ前にまっすぐな心を持つ事である。それは幼子のような心を持つ人となる事である。イエス様がいちじくの木を枯らされたが、この木には多くの「葉」が茂っていたが、残念な事に「実」はなかった。「葉」とは、人の評価、世間体、名誉心、自己顕示欲、虚栄心等を暗示している。▲主の愛は疑わないで生きるといつの日か「山は動く」とある。山(解決が不可能な困難な事柄)のような難問題であろうとも、信仰によって、解決が与えられると信じよう。「疑い」は「二つの道を行こうとする事」である。それは自己分裂の方向である。自己統一は神に全く信頼する生き方から生まれてくる。主を真心から信じる決断をする事が何よりも大切である。そこには大きな祝福と報いがある。





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