巻頭言
2013年2月


2013年2月03日

「神の本音」

犬塚 契

 託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉。わたしはあなたたちを愛してきたと主は言われる。しかし、あなたたちは言う どのように愛を示してくださったのか、と。エサウはヤコブの兄ではないかと主は言われる。しかし、わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ。わたしは彼の山を荒廃させ彼の嗣業を荒れ野のジャッカルのものとした。   マラキ書 1章2−3節

 バビロンへの捕囚に連れていかれた人々が戻り、苦難と弊害を越えて神殿は建て直された。預言者たちは神殿再建後の繁栄を語っていた。しかし、未だ世界の変革は起こっているように思えない。期待は失望に変わり、その振り幅は大きかった。1世代を変えたバビロン捕囚は人々の生活を分断してしまっていた。帰還した人々は市民権を得ることができず、厄介者とみられることもあった。この時期に襲った干ばつは、貧しさに追い討ちをかけ、その反対には資産ある者が自らの生活向上を第一義においていた。格差は広がり、一方で妬みが生まれ、一方で高慢が生まれた。神の民として誇りも、礼拝の在り様も、いいかげんなものとなった。人に捧げることもためらわれるような傷物が、神の礼拝に用いられた。「あなたたちが目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと万軍の主は言われる。」(1章8節)こんな言葉を神に言わせていいのだろうかと読んでいて思う。▲神への不誠実、生活の向上第一、いいかげん礼拝、無関心…マラキ書のキーワードは遠くの国のものではない。しかし…▲マラキ書の最初の言葉、「託宣」とは、その民になお神の言葉があるということであり、なお語られる神の姿を示す。マラキ(使者という意味)が本名なのか、匿名かは知らないが、マラキ以降は、預言者は与えられない。神の語りかけは、もう預言者によらず、受肉という神が人の形を取られるという驚くべき方法へと変わった。イエスキリストの誕生である。



2013年2月10日

「神さまの心を生きる人」

犬塚 契

 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 マタイによる福音書7章21-23節

 できれば棚の奥にしまっておきたい聖書箇所だった。「主よ、主よ」と口先で言っているのは誰であろう。イエスキリストは、天の父の御心を行う者が天の国に入ると言われる。マタイ25章にもう一度このテーマが更に詳細な例えとして登場する。十字架前の最後の例えであり、遺言のような戒めである。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」で始まるその例えは、「とき」を支配するのが私たちではないことをあらためて教える。人は、いつの間にか「とき」を自分の支配下におくが、定められたやがてのキリストの審判がある。その時、その基準となるような言葉かけはあまりに意外だ。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し・・・てくれたからだ。」(マタイ25:35)それらを専門としている慈善団体、NPO法人が頭に浮かぶ。イエスキリストは続けられる「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」具体的な隣人愛の実践の可否が基準とされたというよりも、どこまでも主イエスのまなざしをどこに見たかが問われているように思う。▲素通りしてしまうような小さい者を主イエスは覚えておられることを知らされる。マタイ7章で、猛々しく数々の奇跡を報告した人々に「あなたたちのことは全然知らない」といわれる。そのギラギラ感が「やかましい」と喝破されているようだ。立たれる審判者の栄光は、大勢の人が勇んで持ち寄るそれらに彩られはしない。キリストの栄光とは、貧しさと弱さと痛みと心細さと裏切りに裏打ちされたような栄光である。底辺に見られる栄光である。ヨハネは、福音書の最初にこう書いた「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)▲神が人となられたことは「屈辱」ではないのだろうか。しかし、彼はそれを「栄光」と表現した。「神さまの心を生きる人」とは、それでも最善を祈る人であり、伴いを共に生きる人だと思う。



2013年2月17日

「…つつの信仰」

犬塚 契

 ヤコブは、伯父ラバンの娘ラケルと伯父ラバンの羊の群れを見るとすぐに、井戸の口へ近寄り石を転がして、伯父ラバンの羊に水を飲ませた。ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。 創世記29章1-14節

 28章には、兄エサウの祝福を騙し奪ったヤコブが、神の庇護の地であったベエル・シェバを離れて、東のハランヘ旅立った記事がある。その荒野への逃亡、単独行においてヤコブは、祖父アブラハムでも、父イサクでもない、自分の出来事としてはじめて神と出会った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」と彼は言った。「とある場所」は、「ベテル」(神の家)と名づけられた。それは、借り物でも飾りものでもないヤコブ自身の信仰が問われる時であり、やがて、名を変えイスラエルのすべての基となるヤコブの信仰のスタートだった。その続きの29章。ベエルシェバからベテルまでの長い途上で、彼は何度も「皆さんはどちらの方ですか」(4節)と繰り返しただろう。とうとう「わたしたちはハランの者です」という言葉を聞いた。彼の荒野の旅は終わりに近づいていていることを知り、ヤコブの心は喜んだ。更に彼は母の兄ラバンの娘ラケルがまもなく到着するという情報も耳にした。すると途端に備えられた道しるべのようだった3つの羊の群れが邪魔になり、ヤコブは言った。「まだこんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに行ったらどうですか。」・・・続けて、その共同体のルールをやぶり、強引に井戸の石をどけて、ラケルの連れてきた身内の羊に水を飲ませた。この時のヤコブは、どうなのだろう。エサウから長子の権利を奪い、イサクの祝福を騙し得た彼の強引さが見える。▲28章において格別の取り扱いを受けたヤコブにして、なおなお自分の人生を自分で切り開こうとする我がでてくる。なんと練られるに時が必要なことかと思う。神との特別の出会いを与えられて、なお神を優先にはしない。自分の心を優先にする。▲それでも、その続き読むと変わりなく取り扱われる神の恵みは、覆って豊かだと思う。それは24章に登場する神を信じる謙虚な僕の時とラバンの迎え方が同様だからだ。「ラバンは、妹の息子ヤコブの事を聞くと、走って迎えに行き、ヤコブを抱き締め口づけした。」



2013年2月24日

「キリスト―栄光の希望」

犬塚 修

 「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体なる教会のためにキリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。  コロサイの信徒への手紙1章24節

 なぜパウロは上記の言葉を語ることができたのだろうか。その理由はキリストの愛の深さを知り、永遠の命、また天国の輝きを見ていたからではなかろうか。彼はこの世における苦しみは、永遠の祝福に至る一里塚と信じて いた。今の苦労は必ず、天国の栄光へと変えられていく。ダイヤモンドは多面体にカットされていくことで、虹色のように美しい七色に輝 いていくように、私たちの信仰、人格を練り清めていく。起こってくる試練は私たちを清める働きをするものである。 さらにパウロは「教会のために苦しむ」ことを決意している。当時、教会は荒海に浮かぶ小舟のように弱かった。しかし、その無力さにもかかわらず、教会こそがキリストの体と呼ばれ、歴史的、また世界的な宣教の使命を 託されていた。パウロにとっては、教会の喜びはわが喜び、教会の欠乏や貧しさはわが欠乏、貧しさであり、教会と彼自身は一つであっ た。そして、パウロの抱いていた教会へのこの犠牲的な無償の聖なる愛は、神の遠大な計画を知らされていたところに由来していた。 彼は、神が天地創造以来、代々に隠されていた奥義――異邦人も神の民として愛さ れ、罪の赦しとあがない、永遠の命を受け、主に結ばれた者、完全な者とされた――という神の計画を悟った。私たちは不完全極まりな い罪人に過ぎない。しかし、主の贖いの死によって、天国の栄光と祝福を与えられた。その麗しさ、輝きはダイヤモンドのように比類がな いものである。主は「お前は私の愛する子、私の喜び、私の宝石」という真実な宣言を信じる事である。苦しみに満ちた人生にも、神によ る大ドンデン返しが用意されている。うまずたゆまず希望を持ち続けよう。栄光の希望であるキリストは、私たち一人ひとりにすばらしい 計画を持っておられる。それは「災いではなく平安の計画、将来と希望に満ちた計画」である。エレミヤ29章。





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