巻頭言
2012年02月


2012年02月05日

「神はわが力」

犬塚 契

 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。 詩編46編2-3節

 詩編46編は、2011年3月11日以降、最も多く開かれた聖書箇所だと聞いた。またオバマ大統領が9.11から10年を経た記念式典の中で開いたのもここだった。宗教改革のルターが愛唱したのもここで、2-3節の箇所から讃美歌の「神はわがやぐら」の作詞作曲をした。ルターは、命も狙われるような絶えざる攻撃の中、気がめいるような時、友人メランヒトンに彼は語りかけた。「さぁ、あの歌を歌おうじゃないか」。▲「科学が認めた「あの世」の存在」というコラムを読んだ。「最新の宇宙研究によると、人間が把握できる物質や元素のエネルギーは宇宙全体の4.4%にすぎない。後は、いずれも正体不明の暗黒物質が約23%、暗黒エネルギーが約73%を占める。つまり、私たちが見たり、感じたりできる世界はほんのわずかで、圧倒的に「正体不明」の部分が大きいというのだ。…おそらく私たちは、「地球が動いている」ことを初めて認識したときと同じ、あるいはそれ以上に、「非常識が常識である」と思い知らされる時代にいるのだろう。…いま人間に求められるのは、「謙虚」な姿勢だ。「あの世」どころか「この世」のことさえわからず、人知では制御できないことばかりなのだから。」▲動かぬと思ったものが動き、沸き返らぬと思ったものが沸き返った。あの時、恐らくみんなが自分の歩みを振り返って、立っていた場所の不確かさを感じたのではなかったか。一年を経ずして、再び地を動かぬものにしようする自分を見る。▲山を神とし、海を神とし、陽を神としていた時代の中で、それら一切を超えて治める唯一の神の言葉をただ信じて「わたしたちは決して恐れない」と歌った信仰者の姿を見る。そして、それを啓示された神を知る。 「力を捨てよ、知れ わたしは神。」



2012年02月12日

「こころを神に」

犬塚 契

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ヨハネによる福音書3章16節

 最短の要約。聖書を一言で語るとヨハネ3章16節になる。宗教改革者ルターは、聖書全体が失われても、この言葉が残っていれば人々は救われ続けると語った。▲聖書が最初に教えることは、「神は…」であり、神が存在しているということだった。神は、御自分の存在を証明したり、説明したりするようなことはせず、ただ単純に宣言をされた。見えるもの見えないものの一切が秩序をもって、神の意志で造られたと聖書は語る。神だけが「永遠の存在」であり、「無限」の存在であるという。それは、有限である私たち人間の知恵も理解を超えている。それでも、本物の神の予想をつけることくらいは可能ではないかと書いている神学者がいた。@人間にとって都合のよい神ではないこと。本当の神は、人間の願望の寄せ集めのような神でなく、何か不都合があるはずではないかと。A人間の知恵と理解を超えていること。人間の理性でピッタリ収まるような神は理解はしやすいが、不自然であり、人間の思想の産物なのではないか。B宇宙や人がどうして存在しているのかが説明できること。「なるほど、神がおられるなら、この秩序ある宇宙も人間の存在も説明がつく」と言えるかどうかということ。▲聖書は、神が創造主であると語る。詩編46編にあるように「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移る」ことがあっても、それを超える方がおられる。地にあるものは神になれないと。そして、三位一体の神を語る。「われわれに似るように」造られた人間は、その似姿にあやかり関係の中にこそ生き得ることができる。また神はさばき主である。いまだかつて自由に殺しあっていいような社会が永続しなかったという事実は、普遍的な道徳性を人間は残しているように思う。この神との関係に心を向ける時が礼拝であり、人が本来の歩みを取り戻す時なのだと知りたい。



2012年02月19日

「世を愛す神」

犬塚 契

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 ヨハネによる福音書3章16節

 幾千、幾万もの証拠を提示する代わりに、神はただ宣言された。「初めに、神は天地を創造された」。聖書の最短の要約ヨハネ3章16節もまた「神は…」と始まる。創造主なる神であり、交わりの神であり、どこまでも聖い神である。イザヤ書6章に登場するセラフィムという御使いは、顔を羽で隠しながら賛美した。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」。神の聖さとは、ただ「きれい」でも「きよい」でもない、むしろ「分離」、「超絶」という意味をもっている。神が三度「聖なる」と賛美される方であるとは、汚れにそまった世界とは全く相容れず、遠く離れておられることを強く意味する。太陽を見つめると目が痛むことに似て、イスラエルの子ども達は、人は神の御顔を直接見ることはできず、もし見るようなことがあれば死ぬと教えられていた。それでありながら、人が神の聖さを知っていただく畏怖は、嫌悪感ではなく身震いするような喜びと神への愛となる。その神が「世」を愛されたと聖書は語る。「世」とはコスモスというギリシャ語であり、神にそむく人間が形作る世界の総体を現している。聖なる神が「世を愛された」とは、当たり前の話でない。人には到底、想像できぬほど、描ききれぬほどの出来事なのだ。神もまだ迷っているとか、一時保留することもあるとか、愛することもあるとか、そのようには書かれていない。ただ「世を愛された」と。時々、生きている場からの逃亡先を探す。人の顔を見たくないと思う。見せたくないと思う。こんな場面、状況、有り様に神は何をされているのかと思う。それでも聖書の最短の要約は、すべてを覆う神の決断を語る。「神は…世を愛された」



2012年02月26日

「独り子を与えるほど」

犬塚 契

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 ヨハネによる福音書3章16節

 雪を知らない暑い国に住む人は、雪を想像することもできないという。幼い時にブラジルに渡った宣教師に宛てて、教会学校のみんなで手紙を書いた。私はブラジル?を知らなかったので、“ぶた汁”と書いた。ブラジルがなんのことが分からなかったのだ。小さな頭の限界だった。しかし、歴史上のどの国にも文明にも場所にも「神」を表す言葉はあるという。「神」って何?と考えもしなかったような人達はいなかったのだ。▲聖書の示す神は、天地を造られた神であり、イエスキリストを与えた神であり、慰め主なる神である。クリスチャンは、毎週この神に礼拝を捧げる。他のどの神でもなく、まぁどれでもいいかでもなく、これでもいいかでもなく、この「聖なる神」と呼ばれる神に時間と心とを捧げる。“超絶”というような聖さのもった神の前に、人のちょっとした正しさに隠れた欺瞞は見抜かれ、その真に心あるところも貫かれる。両親や人を前にしても「あぁごまかせない」と感じた経験あるとすれば、神を前にして何が可能だろうかと思う。それでも驚くべきことに、「神は世を愛された」とヨハネは語る。それは、「独り子を与えるほど」だった。よく見えていない人の目には、神はいったいどういうつもりだったか、完全には理解できない。十字架の日、神のふところにおられた独り子イエスの死にローマは笑い、太陽は光を失った。イエスキリストがどうしてそんな苦痛を耐え、死に至るまで天から地の底に降りてくだったのか、その神秘のすべてを身に受けることはできない。それでも、その十字架の前に身を置くしかない私の人生の度々の場面で、このヨハネ3章16節の事実が、新しく広がり続けていくことの幸いを思う。


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