巻頭言
2011年2月


2011年2月6日

「信仰によって生きる」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。  ローマの信徒への手紙  1章16-17節

 パウロが、「わたしは福音を誇りにする」と書かずに、あえて二重否定「恥とはしない」と書いた。そこにはただの強調以上の想いがあったのだろう。パウロは自分自身を誇りに思い、恥としないと言っているのではない。ある牧師は、パウロは1万人のクリスチャンができないことを一人で成したと書いていた。確かにパウロが成した働きは脅威的だと思う。しかし、そんなパウロも自分を見つめると恥があった。ローマ7章を見ると「わたしはなんという惨めな人間なのでしょう」と書いている。自分自身を深く見させられる時にそう言わざるを得なかった。▲早く「大人」になりたかった中高生の時代、なんであんなに親と歩くのが恥ずかしかったのだろう。親と出かける時には、どこに行くにも友人に会わないように願った。10才離れた弟を連れて遊びにいくこともできなかった。思い出せば、親に対しても兄弟に対しても、勝手に恥ずかしいと感じてずいぶん失礼だった。弟子のペトロはイエスキリスト一緒に歩んだ日々を恥ずかしいと否定したことがある。「・・・ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。」(マタイ26:74)私はどうか、福音を恥としたことはなかったか。深く思い出すまでもない。確かにあった。しかし、そんな者を「それでも、わたしはあなたを恥としないよ」と言われる主イエスを知る時に、ならばどうして「わたしは福音を恥かしい」と言えようかと導かれ、心の底から「わたしは福音を恥としない」と告白できるのだと思う。



2011年2月13日

「造り主こそ」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。・・・世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。     ローマの信徒への手紙  1章18-21節

 借りている部屋の一番奥の部屋。あまり活用していなかったので、テントを張って子どもの家とした。子どもは時々、テントの中で喜んで遊ぶ。しかし、その同じ部屋は“お仕置き部屋”ともなる。焼いたばかりの魚をテーブルから叩き落した時、大切な食器を放り投げる時・・・子どもはこの部屋に押し込まれる。怒る理由を伝えて、ピシャリといつもより扉を強く閉めると子どもは泣き始める。それは心地よいものではないがじっーと我慢、我慢。ふと思う。テントはあるし、おもちゃも多少置いてある。彼は自由ではないか。いつものように自分の部屋なのだから遊べばいいのだ。ならば子どもが泣く理由は一つ。やはり関係の喪失なのだと思う。罪と訳されるギリシャ語は“ハマルティア”で“的はずれ”の意味である。大抵は、罪をイメージすると裁かれるべき行為そのものを思い描く。しかし、罪とは行為概念ではなく、関係概念であって、神を離れての的をはずした生き方こそ、その自分勝手な悲しさこそが罪なのだ。神を神としないが故に、「かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」とパウロは語る。▲部屋に入れられて2歳の子どもは関係が失われたと泣く。寂しい、悲しいと泣く。いい大人は泣かない。強がる。寂しくない、悲しくないとうめきをもみ消そうとする。しかし、うめきは消しきれないから、紛らわせてくれる都合のよい新しい神の製造を人間が始める。何度でも関係の再創造を望まれる神の心を疑わずに信じるものでありたい。パウロは手紙の中で唐突に思うような信仰を告白をする。「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」 たびたびこの告白に帰る者でありたい。



2011年2月20日

「砕かれてこそ」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。・・・あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。 ローマの信徒への手紙2章1-4

 乱れたローマに暮らす異邦人たちに向けられた厳しい言葉が1章の後半に続く。律法を知るユダヤ人達は、「私たちは違う」と思っていたことだろう。そもそも出自からして違うんだと。「そうそう、ヒドイんだ。あいつらはどうしようもない人々で・・・」。パウロが指差した方向を一緒に指差して断罪していただろうか。しかし、パウロは突然振り向いたと思ったら、「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない」と始めた。突然にバケツで水をかけられたような出来事だった。「あなたも人を裁いて同じことをしている」。▲裁かれる場に置かれたことがある。数人から私の配慮の足りなさをつつかれる時間を過ごした。何だか嬉しくない時間だった。さらに裁く側であったことはずっと多い。裁判員になったことはないが、日常でバサバサと線引きをして「あっちの人間」、「こっちの私」を造りあげてきた。そうすることによって自分の安全を確保した気になったし、私は純粋で大丈夫な部類だと思い込むことができた。しかし、聖霊の促しによって心が探られる時、自分の完全も純粋も果たしてどれほどのものなのだろう。なんとも欺瞞に満ちたものだと思う。とむしろ、属すは裁かれる側であるのではないかと思う。パウロが突然こちらを向いて指差しても、濡れ衣でも誤解でもない、まさにその通りなのだ。ただ待つは神の裁き。▲ところが、この「神の裁き」こそが罪人に響く福音であって、その内実は「悔い改めに導き」「豊かな慈愛」「寛容」「忍耐」に溢れたものだとパウロは語る。人が作る殺伐とした裁き合いによって絶望は生まれる。神が用意されるのは、「神の裁き」という希望であって、この希望によって、ようやく私たちは立って歩くことを始めるのだと思う。


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