巻頭言
2010年2月


2010年2月7日

悲劇の人ヤロブ アム

牧師 犬塚 修

ヤロブアムは心に思った。「今、王国は、再びダビデの家のものに なりそうだ。                   T列王記12:26

ソロモン亡き後、イスラエルは南北に分裂し、北イスラエルの初代 王はヤロブアムでした。彼は優れた人であり、将来を嘱望された事 は「ヤロブアムは有能な人物だったので、ソロモンはこの若者の働 きぶりを見て、ヨセフ族の労役全体の監督に任命した」(11:28)の 記述で分かります。彼には名君になる可能性がありましたが、つい には悪君、独裁者に堕しました。「彼はよく考えたうえで、金の子 牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに 上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトか ら導き上ったあなたの神である」(28節)と宣言し、民を惑わしてし まったのです。なぜこの愚挙に至ったのでしょうか。そこにヤロブ アム自身の罪と弱さがありました。残念な事に、彼は疑心暗鬼・恐 れ・不安に心が傾いていのです。彼は王国を治めるためには、自分 の巧みな政策が必要と信じ、必死で民の心を自分につなぎとめよう と試みます。また信仰に由来した自信がないので、常にビクビクし ていました。神が豊かな恵みによって、自分と国を死守される事を 信じず、自分の精一杯の努力で守らねばならないと思いつめていた 事が彼の落とし穴となったのです。確かに、周囲を見渡したならば 、不安材料が数多くあったでしょう。しかし、もし彼が「この国は 神の支配される祝福の場所なのだ、すべてを神のみ心にゆだねよう 。大丈夫」という確信に立ったならば、恐れや不安は消え去り、祝 福に満ちた歩みができたと信じます。



2010年2月14日

「そうでなくとも」

牧師 犬塚 契

神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部 族の人たちに挨拶いたします。わたしの兄弟たち、いろいろな試練 に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されるこ とで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。  ヤコブ1章2−3節

聖書のどこが開かれても、自分の現実や生活の只中に与えられた言 葉として読める時がある。素直に励まされたり、辿った道への振り 返りが起きたり、悔い改めを教えられたり、言葉の一つに妙に涙も ろくなったりもする・・・。叩けば響く時がある。また、そうでも ない時もやはりある。どこを読んでも、何を聞いても、響かない時 。大きな風が吹くこともなく、時々小さな風が起きたとしても机の ごみを少し飛ばすことぐらいの時。あまりに物事が複雑に入り混じ った故か、労苦が徒労に終わったように思える時か、予想のペース や期待の出来事との相違が大きいからか。次のエネルギーがでてこ ない。▲ヤコブの手紙は単刀直入だ。一行の挨拶。それでいて、当 時ありふれたヤコブという名前でありながら誰だか皆に知られた人 物。つまりはイエスキリストの弟ではなかったのかと。そして、す でに二言目には、試練に出会うときは、喜びと思うようにと続く。 なぜなら、信仰は試されると忍耐が生じるからだと。今はその時。 忍耐を学ぶ時だと。プレゼントや祝福をもらって、感謝したり、賛 美したりは、誰でもできる。「神様、プレゼントありがとう!」。 しかし、試練の中であっても、真の信仰者は喜ぶ。旧約聖書に登場 するダニエルは、偶像礼拝を強いられて拒否したが故に焼却炉にい れらることになった。そして、王に語る。「わたしたちのお仕えす る神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことがで きますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知くだ さい。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金 の像を拝むことも、決していたしません。」▲そうでなくとも、私 たちは歩き続ける。



2010年2月21日

全世界に出て行って

牧師 犬塚 修

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られ たものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われる が、信じない者は滅びの宣告を受ける。         マルコ16:15〜16

来週総会が開催されます。総会には霊的兄姉としての小さな家族会議 、また他方、全世界を視野に入れた大きな宣教会議の胚芽があります 。全世界に出て行くために、まず教会の内部が整えられねばなりません 。その整えを総会で話し合うのです。現在の日本のクリスチャン人口は 1%未満にすぎません。この厳しい状況の中、教会に託された宣教の使 命は非常に大きいものです。約2000年前のイスラエルでも、主のそばに は少数の弟子たちがいました。その彼らも、官憲の締め付けを恐れ、震 えおののき、信仰が弱くなっていました。復活した主イエス様が目前に 現れても、彼らの信仰は確信に満ちたものとは言えませんでした。「イ エスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活され たイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(14節) しかし、彼らの信仰が飛躍的に成長する変革の時が訪れます。それは、 上記にある主の世界宣教命令によりました。信仰が弱く、たどたどしい 歩みの彼らに、主は驚くべき壮大な宣教ビジョンを託されたのです。「 全世界に出て行って、すべてのものに!」主は弱い弟子たちを深く信頼 され、宣教の使命を委託され「必ずあなたたちはできる」と強く励まさ れたのです。もし、私達が自分の欠乏感と弱さだけを見つめていると、 力は湧いてきません。ひたすら復活の主を仰ぎ、心の目を全世界に向け、 神の可能性を確信して立ち上がるならば、たわわに実る豊かな収穫が用 意されています。私達に宿る主イエス様の復活のエネルギーは、あふれ 出て、全世界を多い尽くすものとなると信じましょう。今、心を合わせ 、一致して、歩みましょう。「初めからのことを思い出すな。昔のこと を思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽 生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を 敷き、砂漠に大河を流れさせる」(イザヤ43:18〜19)。



2010年2月28日

「上手、下手」

牧師 犬塚 契

彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえ にしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主 よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさ る者ではありません。」 列王記上19章4節

列王記に登場する預言者エリヤは、バアルの預言者450人とどちらの神が 本物かを争った。それぞれの預言者は自分の神に祈りを捧げた。バアル の神は無反応だったが、エリヤの願いは聞き入れられた。見事その戦い には勝つのだが、勢い余ったか、エリヤはバアルの預言者を皆殺しにし てしまう。そして、彼は追われる身になり、脅える身になった。勇まし さは消えて、上記のエリヤの言葉「主よ、もう十分です。わたしの命を 取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」▲エリヤ の言葉は「上手に生きることができませんでした」と聞こえる。そんな 言葉が自分自身の内にもこだますることがある。懐が深く、太っ腹で、 包容力があり、柔軟で、寛容な、奥の深い、開放的な…者であればよか ったのに浅い。いや、そんなに立派でなくともせめて、もう少し器用に 上手に生きられたらと思うことがある。おだてられても舞い上がらず、 蔑まれても落ち込みすぎず、相手に上手に声をかけ、話しを聞き、イラ つかず、ただ祈り心を持って…。▲エリヤは「先祖にまさる者ではあり ません」と告白した。比較が始まると自分がなんとも小さな者に思えて くる。それでも聖書に登場する人々で「上手に」生きた人がいただろう かと思う。上手に生き抜けなかったから、彼らには神をそばにする理由 になったのも事実だと思う。「生き方下手!」で、もうしばらく。


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