巻頭言
2009年2月


2009年2月1日

「聖書を読み続ける」

牧師 犬塚 修

いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人 は。いかに幸いなことでしょう。主の定めを守り、心を尽くしてそ れを尋ね求める人は。 詩篇119:1〜2

サタンが言いました。「わしはクリスチャンの心から喜びを奪う方 法を良く知っている」別の悪霊が「ぜひ教えてくれ」と頼み込んだ のです。「そりゃ簡単さ。何としても聖書を読まないようにすれば 、それでOKさ。しかし、時々、霊に燃やされる神の子が出て来て 困る。彼は聖書を熱心に読み始めるのさ。するとわしの出番がなく なる」 聖書を読み始めると、サタンは蒼ざめます。今まで空しい 状態に心を眠らせていたのが、これからはそうできなくなるからで す。そして、心の中にある氷河が溶け始め、春が訪れ、満々とした 大河の流れとなるのです。ある期間に、聖書を読み続けるならば、 祝福は大きいものとなります。聖書は、私達の悩みを根本的に解決 する恐るべき力です。ある重大な問題で悩む時、私たちは無力感に とらわれるかもしれません。しかし、聖書に向かうならば奇跡は起 こります。先日、ある兄弟が「わたしは孤独感で悩み苦しんでいま した。しかし、涙を流しながら出エジプト記、レビ記、民数記、ヨ シュアと読み続けた時、私は知ったのです。アブラハムやモ一セが どんな思いで、長い年月を耐えたのかと。何と40年間も異邦人の地 で、信仰の訓練を受けたのです。その苦労に比べたならば、僕の苦 労は何と軽いものでしょうか」と語られました。その目はもはや憂 いの目ではなく、キラキラと輝いていました。み言が私たちを変え たのです。信仰の確信と歓喜は聖書の通読から来ます。それはすば らしい霊的な体験を与えてくれるものです。



2009年2月8日

「読み手となって」

牧師 犬塚 契

あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそう であるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟 った日から、実を結んで成長しています。 コロサイ1章12節

小説でも、エッセイでも、ラブレターでも…。書かれたものは、書 き手だけでなく、それを読んでくれる人がいて初めて生きてくる双 方の出来事である。そんなことを頭の隅に置きながら、少し前に読 んだ一文を思い出した。恵みには、「キャッチ」という作業が必要 だと。▲教えてもいないのに、赤ちゃんが母乳を「キャッチ」する のにびっくりした。口に触れるものを懸命に吸おうとする。これが いのちの糧と知っているようだった。▲流れるように過ぎる毎日と 舞い戻ってくる課題、ちりばめられた喜びともたげてくる恐れ。そ れらの中に恵みをキャッチする大切さを思う。恐らく神は休まずに 恵みを綴る。読み手である私はそれを如何に読み込んでいるだろう 。快・不快だけで出来事を判断しては、恥ずかしい決断を繰り返し ていないだろうかと自問する。▲らくだの背中に乗りながら旅をし ているような創世記。事件の合間の見逃されがちな長い時間を想像 する。祝福を受けてからイサクが誕生するまで25年も必要だったア ブラハム。レアとラケルを妻にするために懸命に働いたヤコブの14 年。エサウとヤコブの和解に必要だった20年。彼らが繰り返した、 ほとんど神がかっていないような日々を思う。それでもやはり進行 形だったのだと今知る。▲「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 」恵みのよい読み手でありたいと思う。▲オバマ大統領が「チェン ジ」を語る40年前キング牧師が「チェンジ」を話していたことを読 んだ。「チェンジとは、必然的に訪れるのではない。それは、私た ちのたゆみない闘いによってもたらされるのだ。」



2009年2月15日

「見えないもの」

牧師 犬塚 修

わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのあ る永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものでは なく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが 、見えないものは永遠に存続するからです。 Uコリント4:17〜18

どうしようもない心配事や試練、苦しみ、ストレスに悩む時は、間 髪いれずに、絶対的な王であるイエス様を見上げ、み言を確信する 事が大切です。そこには、豊かな平安と勝利が約束されています。 太陽は天に輝くように、神の恵みはイエス様に溢れています。 艱難は永続してしまうと思い込む事は大きな間違いです。それは一 時的なものに過ぎず、むしろ永遠の栄光をもたらしてくれる母胎に 過ぎません。この真理を悟るためには、どうしても守るべき道があ ります。それは「目に見えるもの」に左右されず、「目に見えない もの」に目を注ぐ生き方の絶えざる実践・修行です。その場合、例 外を許さないほどの覚悟が必要になります。「目に見える現実」と いう具体的なものは強烈な影響力を持っており、私達の心を支配し 、悩みと無力感という暗い世界に引きずり込もうとします。そして 深刻なダメ一ジを与えます。その悪影響は甚大で、私達はこれに縛 られる事が良くあります。私達は心を一変し、「目に見えないもの 」という神の導きに集中しましょう。この戒めはパウロから届いた 命がけの宣言文です。もし、全身全霊をかけて 、今は隠されてい る神の導きと恵みに集中するならば、信仰生活は劇的に変化します 。私達は、必ず過ぎ去る苦しい現実ではなく、永遠に存続する神の リ一ドを信じ続けるならば、平安・歓喜・充実の道を進み得ます。 また不安に陥れる無用なストレスは霧散し、幸福な日々を過ごす事 ができる事を確信します。



2009年2月22日

「神に向かって」

牧師 犬塚 契

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、 祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復 活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ 、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あ なたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思 っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来 たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いな さい。 マタイによる福音書16章21-24節

ラジオをかけながら仕事をしていると、番組のパーソナリティーが しきりに受験生へエールを送っている。「この番組を聴きながら、 勉強しているみんな!もうすこしだよ。大変なのはわかる。もうす こしだけがんばろう!」。上手に話すなぁと思う。それで、私も少 し昔の右往左往していた頃を思い出す。本当の自分の好みや性格が 、よくよく分からずに、心で吟味できずに、周りの話すまま、作ら れるままに、生きていたのではないかと思う。企業の刷り込みや仲 間からの圧力は、土台をよく揺らし、その度に困ったことをおぼろ げに思い出す。▲どこに向かって生きているのかは、いつも問われ ているのだと思う。ペトロは、年長者だった。悲観的になっている ように思う自分の先生を、年の功で励まそうと思った。しかし、す るどい口調で喝破される。「神のことを思わず、人間のことを思っ ている」。▲人を恐れるとやっぱり罠にかかる。人に向かって生き ていると、反応も、成長も、見返りも期待する。土台も揺らぐ。生 きることひとつひとつは、神にささげられる、礼拝となるのだと思 う。自分の十字架を背負って、キリストの後を歩む者でありたい。








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