巻頭言 2008年2月 |
「とうごまの木と私たちの関係」
牧師 犬塚 契
神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それ は正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死 にたいくらいです。」 |
教会で育つと、「魚に飲み込まれたヨナ」の絵本は何度も読むこと
になる。箱舟のノアとお魚のヨナの違いは、主に絵本を通して知っ
た。結局、この逃亡の伝道者ヨナはニネベで伝道することになる。
それが3章まで。最後の4章は、神とヨナの関わりが書いてある。
ニネベの救済の成功、その後なおも駄々をこねるヨナに神様が付き
あうシーンでヨナ書は終わる。前の3章でニネベの町が悔いあらた
めて、神が怒りを治めてハッピーエンドなのに、そこで終りにしな
い。まだ4章がある。4章で慰めを受けているのは、ただ一人だ。
トラウマとプライドが邪魔をして、使い辛い人材のヨナひとり。こ
のヨナへの励ましで、ヨナ書の全4章は終わる。「お前は、自分で
労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅び
たこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわた
しが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこ
には、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がい
るのだから。」ヨナ書4章9-11節
12万人以上の人々、無数の家畜の救済、そしてなおヨナがいる。
だから、4章までヨナ書は続く。そして、書かれていない5章には
、他でもない私たち一人一人の神の異なった導きがあるのだと思う
。ヨナには、とうごまの木、私たちには何を神様は用いるのだろう
。
主を仰いで生きる
牧師 犬塚 修
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言 葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その 罪人の中で最たる者です。 Tテモテ1:15 |
人生における悲劇は自分を卑下する事です。その結果、悲しく苦い
実を刈り取ります。自己卑下の人は必ず他者を卑下するようになり
ます。いつも怒りの感情が隠されているからです。パウロは自分を
“罪人の中で最たる者”と言いましたが、それは自己嫌悪感による
ものではありませんでした。彼は間髪いれずに、イエス・キリスト
を仰ぎます。そして十字架によるおのれの救いを確信し、歓喜にあ
ふれます。パウロにとってイエス様なしの人生など考えられません
でした。主から離れると自分は滅びると知っていたのです。彼はお
のれに厳しく、他者には寛容でした。また、自分に起こった奇跡的
体験を語る事はきわめて少なく、ただ主の恵みだけを熱心に語りま
した。自分の弱さや罪を見つめて、悲しみ、ひたすらイエス様を仰
ぐ謙虚さを持っていました。
もし私たちが人の罪を責め、どうしても赦そうとしないならば、そ
の苦い根は信仰の破船、また滅びに至らせるでしょう。人へのわだ
かまりは良い人間関係を壊し、恨みは心を泥沼に引きずり込みます
。自己顕示欲に支配され、自我が強くなると、過去の悪い出来事に
こだわり続けます。すべてを神にゆだね、怨念や恨み、非寛容さを
聖霊の火で焼き尽くしましょう。カイン性を否定する事です(創世
記4章)。神には無限の赦しと愛が満ちています。赦しは神のすば
らしい賜物です。それを豊かに受け、本当の自分、救われて神の子
とされた新しい自分を取り戻すことです。
「予想だにしない展開」
牧師 犬塚 契
●アブラハムの場合
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳
の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろ
うか。」アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前
に生き永らえますように。」神は言われた。「いや、あなたの妻サ
ラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と
名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の
契約とする。創世記17:17-18
●モーセの場合
モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラ
オのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さ
ねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと
共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。
あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で
神に仕える。」 出エジプト3:11
●エレミヤの場合
わたしは言った。「ああ、わが主なる神よわたしは語る言葉を知り
ません。わたしは若者にすぎませんから。」しかし、主はわたしに
言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなた
を、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをす
べて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出
す」と主は言われた。エレミヤ1:6
期待通り、予想したように、イメージできたように、描いた通り、
願ったように、物事が運ぶと満足して、神様が働いてくれた…気に
なる。しかし、聖書の登場人物はなんともその反対を生かされてき
たことかと思う。人がイメージできるところなど、神のイメージと
比較にならないのだなぁとつくづく思う。私が心配する以上に神は
心配し、喜ぶ以上に喜んでいる。だから、私の予想だにしない展開
はあまり、驚くに値しないのかもしれない。
自分の本分
牧師 犬塚 修
「人の子よ、イスラエルの家はわたしにとって金滓のようになった 。彼らは炉の中で、みな銀、銅、錫、鉄、鉛などであった。ところ が彼らは金滓となってしまった。 エゼキエル書22:18 |
神は私たちをすばらしい価値ある「銀、銅、錫、鉄、鉛」のような
有益な存在として創造されました。にもかかわらず、自分が金滓の
ような無益な者に思えてならないのはなぜでしょうか。
それは罪のゆえです。罪とは生きた創造主、活ける神からの離反の
事です。小塩節氏は随想集「春近く」の中で「強烈に自我を主張し
ているわたしのこの『おのれ』を砕かなくてはいけないのだ。わた
したちの友情も教養も愛も、そう、愛ですらも、実はすべて自分の
ためであり、自分が世界の中心である。すべてのもの、全世界でさ
えをも、自己に仕えさせようとする自然のままの人間である」と書
かれています。氏は人間の『おのれ』に固執する自己中心的な罪を
鋭く指摘しています。
世界の中心に『おのれ』を置くと、いつしか恐ろしい暴君になりま
す。罪にしばられた生活は不自由になり、ついには自分がきらいに
なります。また人と会うのが怖くなったり、嫌になったりもします
。人を避けて、一人で生きた法が良いと思うのは、実は人ではなく
、自分が怖く、嫌いなのです。自分を憎むのは金滓に思えるからで
す。人はみな自分を無価値と感じると自堕落になります。
根本的な解決は神の言葉に聞き従う事にあります。神は「あなたは
『銀、銅、錫、鉄、鉛』のような尊い価値ある存在だと激しく語ら
れます。自分の価値を否定する悪魔の声に耳を傾けてはなりません
。神のみ声に聞き従うべきです。銀は銀らしく、銅は銅らしく、錫
は錫らしく自分なりに生きるのです。それが私達の生きる目的であ
り、本来の道です。