巻頭言 2007年2月 |
「礼拝と平和」月間を迎えて
牧師 犬塚 修
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得 るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出 しなさい。わたしは既に世に勝っている。 ヨハネ16:33 |
失敗しないで生きたいと願っても、何度も同じような過ちを犯して
しまうことがあります。「また失敗したな、だめな奴だ」という声
が心に聞こえてきて、自信を失うのです。そのような時は、失敗し
た事実に目を留めず、主の完全な守りと許しに心を集中することで
す。そうしないと、心のバランスを失います。私たち人間は過ちを
犯さないで生きる事はできません。ただし、それにこだわり、自分
を卑下するか、あるいは主の愛を信じ、大胆に生きる道を選ぶかは
私たちの決断一つにかかっています。「不法が赦され、罪を覆い隠
された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、
幸いである。」(ロマ4:7〜8)
そして罪が赦された者として、軽やかに生きましょう。主は私たち
の人生は順風満帆であり、何も問題がないとは言われず、「世では
苦難がある」と率直に語られています。現実社会で生きる事は大変
な事ですが、その辛さの中で、主は絶大な平安を与えると言われま
した。私たちは海辺にいるサ−ファ−に似ています。大波は確かに
襲うのですが、良いサ−ファ−はそれを受けても、余り動ぜず、む
しろ楽し気に波に挑みます。巨大な波であればあるほど、それを乗
り切ることは、更なる大きな喜びと満足感を与えてくれると知って
いるからです。
「アベニモマケズ」
牧師 犬塚 契
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に 向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。 イザヤ書2章4節 |
ニューヨークの国連本部入口土台に刻まれたこの言葉から、また遠
のいた。3年前と一昨年、沖縄に行った。アジア・太平洋戦争で沖縄
に落とされた火薬は、20万トン。死者・行方不明者は約20万人。一
人が殺されるのに、1トンの火薬を使ったことになる。自分の頭の
上に、1トンの火薬が落とされたことを想像した。無意味な計算だ
が、行われたことはもっともっと無意味だ。そんな無意味さと悲劇
と残った惨状は、世界に誇る9条となった。政治家が改憲というから
、1条を変えて、男子でも女子でも、普通に喜ばれるように人権を返
してあげるのかと思ったら、9条だと言う。だいたい今まで、国民の
側から、「9条を変えよう!」という機運が盛り上がったことは一度
もない。知らない間に99条は変わってしまったかのようだ。「天皇
又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この
憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」。▲沖縄でみた「沖縄戦の図」、
ひめゆり平和祈念資料館の写真、平和の礎の名前が目に浮かぶ。余
りにも多くの犠牲の上に、ようやく決意した「日本国は、殺せない
」という決断が、変わるかも知れないという岐路に立たされている
。▲「いくさのためのどんなものも、打ち直し、つくりかえ、平和
の道具にしていくと、祈りをこめた、あの“約束”を守り抜く者に
してください。主よ、わたしたちを…。」
「大丈夫信仰に立って」
牧師 犬塚 修
主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。 詩篇46:9 |
時折、突然予期せぬ厳しい出来事が起こり、心が動揺することがあ
ります。「果たしてこれから大丈夫だろうか…」と将来について不
安になり、心配してしまうのです。人間的に考えると、居ても立っ
てもたまらないという混乱した心境になることもあります。しかし
、その危機的な時は、神の驚くべき恵みを体験する絶好のチャンス
としてとらえることが肝要です。主なる神は、私たちが従順に従う
かどうかをご覧になります。私たちが相変わらず、不安感の中に身
を置くならば、主のみ業は遅くなります。他方「私は心配しない。
どんなことがあっても、大丈夫!決してうろたえない。なぜならば
、私の主は活きておられ、私を苦難から救い出されるからだ」と高
らかに宣言するならば、そのように導かれます。そして、主の輝か
しい救いのみ業を見ることができます。いつでもどこでも、大声で
主の御名を呼ぶことです。「わたしの恵みの業を、わたしは近く成
し遂げる。もはや遠くはない。わたしは遅れることなく救いをもた
らす。わたしはシオンに救いをイスラエルにわたしの輝きを与える
ことにした。」(イザヤ46:13)「信仰とは、望んでいる事がらを確
信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(へブライ11:
1)とあります。主の力を確信し、悩むことをストップしましょう。
たとえ今は目に見えていなくても、まるで見えているかのように快
活に生きていきたいものです。
「ニンジン」
牧師 犬塚 契
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの すばらしさに、今では他の一切を損失とみています。 フィリピの信徒への手紙3:8 |
目の前にニンジンをぶら下げられて、追っていく馬のような感覚だ
った。追いかけても、ニンジンとの距離は一向に縮まらないように
思えた。「ほら、もうすぐ祝福されるよ」とずーと呼びかけられつ
つ、届きそうにないことに苛立ちがあった。それが私の20代前半の
信仰状態。ニンジンとは、恐らく自分自身で描いた神のあるべき姿
であり、その神から受けるはずの祝福の形だったのだろう。「ほう
ら、待ってるよ!おいでよ!もうすぐだよ」式の神を信じることか
ら、人として降りてこられた神を信じることへ信仰が戻されること
によって、この地に足をつけて歩まれたイエスの姿に励ましを受け
るようになった。▲イエスキリストをただのお守りのように信じる
ことも可能だと思う。たくさんの人が十字架のネックレスをつける
ように。魔除けか、御利益か…。クリスチャンは、ただのお守りや
当てにならない占いを信じる者ではない。聖書はこの世で苦難も悩
みもあると断言している。…が、一人ではない。先に歩み通された
主が共におられる。私たちの歩みの中に、十字架の主がにじみ出て
くるように、描き出されていくように。既に勝利されている主が。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を
得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を
出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネ16:33