巻頭言
2006年2月


2006年2月5日

「私たちの歩みのあるところ」

牧師 犬塚 契

モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、 しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 出エジプト記 3章11節

ヨセフがエジプトの首相に就任し、飢饉で苦しむヤコブの家族がエジプトに移住して から、月日が経ち400年。誰もヨセフのことは覚えていない。『そのころ、ヨセフ のことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル 人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。…」』1章 だから、男児皆殺しの命令が下った。喜ばしいはずの出産は、家族の悲劇になった。 そんな中で、モーセは生まれた。殺せなかった親は、ナイル川に流す。見つけたのが 王女だったから、モーセはヘブライ人でありながら、王子として育った。当時の最高 の待遇と教育を受けた。将来の保障と安泰が約束されていたが、彼の帰属意識は満た されてはいなかったのだろう。自分はエジプト人なのか、ヘブライ人なのか…。搾取 される同胞をかばうつもりで、人を殺してしまう。カッとなると抑えがきかない性格 だった。彼はすべてを捨てて荒野へ逃げた。40代だった。それから40年の月日が 流れ、彼が80歳になった時に神からの使命が与えられる。その時の彼は、ただ羊を 飼っていた老人だった。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わ す。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 3章 なぜ、そんなにも時間が必要だったのだろう。便利屋さんの研修は3ヶ月と読んだ。 なのに、モーセには王子として40年、ホームレスとして40年必要だった。▲モー セにとっては、自分の人生があきらかに不毛に映っていた。だから、息子に「ゲルシ ョム」(根無し草)と名づけた。エジプトでのきらびやかな着物、堪能に操る言語、 豊かな食卓を懐かしく思い出すこともあったかもしれない。けれども、今自分は田舎 で人の羊を飼っている。そして、このまま静かに老兵は去るはずだった。▲人間が、 自分で思う以上に強情であり、自己中心的であり、変化に乏しく、臆病で、希望より も絶望に逃げる方が多いことを、自分をみてもわかる。モーセもそうだったかもしれ ない。だから、40年も研修が必要だった。1万日もの繰り返しが必要だった。それ でも、神にとってはなくてはならぬ一日一日だったことをモーセは、シナイに向かう 荒野の40年で知ったことだろう。▲昨日は、調子よく順風満帆で人生波乱バラ色に 見えた。今日は一日布団から出たくなかった。昨日、今日で一喜一憂するのに、忙し すぎるように思う。人生長い目で見よう!と呼びかけたいのではなく、起きてくる出 来事の後ろに神の手の届かない者がないことを知りたいのである。▲「死よ、お前の 勝利はどこにあるのか。」と死にすら勝利宣言する神の前に私たちの歩みがある。



2006年2月12日

「奉仕と希望」月間の中で

牧師 犬塚 修

わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希 望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたした ちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 ロマ8:24〜25

アンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」は希望の大切さを描いています。ほかの アヒルたちに徹底的にいじめられた小さな子は大空を雄大に飛翔する白鳥を見て「ぼ くもあんな風に飛びたい。」という希望を持ちました。その瞬間、血が騒ぎ出し、飛 べるかもしれないというかすか希望を持ちました。そして、ついに空中に飛び上った のです。アンデルセンは、私たちはどんなに絶望的な状態の中にあっても、主に心が 結びつくならば、確かな希望を抱いて力強く生きることができると語っています。目 に見えるものはいつか消えうせていきます。「これだけは変わらない」と思い込んで いるものも過ぎ去りますので、私たちは一生涯、喪失感に悩む恐れがあるのです。し かし、「目に見えないもの」は永遠に続くと聖書は語ります。永遠者である神は心の 目でないと見えません。愛や希望や信仰も、天国も復活も見えませんが、空気は目で は見えなくても間違いなく存在するように、確かに存在しているのです。私たち現代 人は、唯物思想や物質主義にならされてしまい、見えない神に対する畏敬の念を失っ ており、その結果、心に空虚感、喪失感、絶望感が支配するようになったのではない でしょうか。今、私たちに不可欠なものは、生けるまことの神を求め、へりくだった 生き方を志すことです。神を慕う希望の心は、絶望さえも飲み込み、新しい歴史を創 造する根源的な力を生みます。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主 に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく 、歩いても疲れない。」(イザヤ40:30〜31)



2006年2月19日

ファンタジーの喜び

牧師 犬塚 契

信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、 愛にしっかりと立つ者としてくださるように。エフェソ3章17節

場所、教会二階の牧師館。「きみの頭の中は、メルヘンだな」と、30歳を過ぎても なお壮大な夢!?を語った私に向かって、テレビを見ながら弟が言った。▲1898年に 生まれた神学者、作家、著述家のCSルイスの作品が映画化され、3月に上映されると 教会のポスターで知った。7部作ナルニア国物語の一部目で「ライオンと魔女」。「 自分が読みたいと思うファンタジーがなかったから」、とCSルイスはナルニアを書い た。4人の兄弟姉妹が戦時下のロンドンから、田舎へ疎開するところから物語は始ま る。疎開先の大邸宅、空き部屋にあった衣装ダンスから、ナルニア国への扉が開かれ るが、そこには魔女の呪いにより冬の世界が広がっていた。兄弟姉妹とライオンのア スランの出会いにより、ナルニア国回復のストーリーが始まっていくが、CSルイスの キリスト教世界観がファンタジーの名を借りてあらわされている。平安をなくしたナ ルニア国、アスランの到来と・・・。怒られそうですので、もう書きません。▲ファ ンタジーは積極的逃避文学と言われる。逃避という方法で、作家が作り出す別世界へ と導かれ、自分自身に執着していたことから解放され、新しく見る目を与えられ、現 実へとエネルギーが生み出される。CSルイスに言おう、「きみの頭の中はメルヘンだ な」。「YES」と答えてくれる気がする。▲キリストを知らなかったら、自分のこと しか考えなかったと思う。喜びの質が変わっていくこともなかった。病や痛みが祝福 の基だなんて、受付けなかった。自分が愛され、神の計画があるなんて、想像もしな かった。購われ、生かされているなんて・・・。天を見ながら歩むことのできる幸い を思った。



2006年2月26日

「再創造のみ業」

牧師 犬塚 修

あなたが、餌食の山々から、光を放って力強く立たれるとき、勇敢な者も狂気のうち に眠り、戦士も手の力を振るいえなくなる。ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると、 戦車も馬も深い眠りに陥る。あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。怒りを発せられる とき、誰が御前に立ちえよう。 詩篇76:5〜8

自分の決断がかの事で道を誤ったことを知り、夜も眠れないという不安と動揺の時は 、私たちはどのようにふるまったらよいでしょうか。いつまでも悶え苦しみ、自分を 責め続けるのでしょうか。または「なるようにしかならない」という絶望的な開き直 りをすることでしょうか。そのいずれの方法も、自分の心の傷を癒すことはできませ ん。ここに有益な解決の道が記されています。それは、主が直接かかわってくださる ことを求めることです。主の御名を呼び求め、悔い改めの祈りを捧げる時、主は驚嘆 すべきみ業を開始されます。その問題の中に入って下さり、すべてを平和のうちに導 かれるのです。私たちは「覆水盆に帰らず」のことわざを知っています。「一度、失 敗したならば、もう取り返しがつかない」という意味です。けれども、主は奇跡的な 再創造の業を起こされます。主にあっては、いくらでも取り返しはつくのです。全能 の主は無敵を誇っていた「戦車も馬も深い眠りに」陥らせられます。この主のみ言を 強く信じるならば、私たちは多くのストレスや不安を克服できます。そして無限に広 がる主の愛と恵みに感謝して歩むようになるのです。





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