巻頭言
2005年2月


2005年2月6日

「教育と祈祷」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。母は、「わたしは苦しんで産ん だから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。またヤベツがイスラエルの神に 、「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあっ て災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」と祈ると、神はこの求 めを聞き入れられた。 歴代誌上4:9〜10

ユダ族に属し、ヤベツ家の創始者と言われているヤベツは、家族の者達から深 く尊敬された幸福な人物でした。なぜ充実した豊かな人生を送ることができた のでしょうか。考えられる事は彼が苦労人であった事です。その名前の由来は 「彼は苦しみを作る」という意味で、母親が難産で生んだ事から命名されまし た。また、その名の通り、彼は人生において幾多の苦しみを経て、祝福される 秘訣を学び取ったようです。それは祈りの生活を堅持した事でした。彼は大胆 に自分の祝福を求めました。普通は、人のために祈る事は良いが、自分のため に祈る事はどうも…という考え方があります。そうではありません。神は私達 が自分の祝福のために祈る事を喜んで下さいます。さらにヤベツは国境を固く 守り、国の領土を広げて下さいと祈り、その祈りは見事に聴かれました。彼は 祈りの勇者でした。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そ うすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、 求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7:7〜 8) 「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのと おりになる」(マルコ11:24)の「信じなさい」は現在進行形ですから、得られ た事を信じ続ける事です。すでに得たという幻を心に描くと喜びと確信が湧い てきます。今年は、もっと多く祈りに時間をかけましょう。祈りは驚くべき奇 跡を生む原動力です。祈りの座を確保し、忍耐強く黙々と、祈り続けるならば 、私達はヤベツのように、神に大いに祝福された人となるでしょう。



2005年2月13日

適切な距離をもって

牧師 犬塚 修

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどう の枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように, あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶ事ができない。 ヨハネ15:4

先日の連合主催による教育研修会はすばらしい集会でした。講師の関田寛雄先 生の真摯なメッセ−ジは私たちの心を深くとらえました。 「人間関係で大切な点は互いに秘密を持たない事ではなくて、互いがイエス様 にあって自立する事である。『それを言っちゃおしまいだよ』は『男はつらい よ』の名セリフであるが、これは自己抑制と分別の大事さを教えている。「適 切な距離こそがまことの接近である」(D・ボンフェツファ−の言葉)とある。 私自身、長い間、差別された社会的弱者の人々と共に歩んできたが、それでも 彼らの苦悩を充分には担いきれない事、またどうしようもない限界性がある事 を痛感してきた。ゆえに自分と人の間に適切な距離を置く事は大切であり、た だ仲良くするという交わり(ベッタリズム)はゆがんだ甘えの関係を生み、最後 は傷つけあう事が起こる。」 現代世界は、自分が他者と違うことを喜ぶよりも、むしろ他人と同じある事に こだわり、例外を許そうとしない偏狭さが感じられ、何となく怖い気もします 。人と調子を合わせ、和を保つべきという同一化や均質化の風潮の中で、自分 の信仰や自立心を持って生きる事は勇気を要する事です。しかし、適切な距離 と自立心は、私たちの憂鬱の感情を解消する強い力があります。逆に、相手の 一方的なペ−スに巻き込まれると、私たちは自分を見失い、心は混乱したり動 揺したりします。むしろ「私は私、あなたはあなた。お互いが違っていても良 い。二人が仲良くできるならば、それに越した事はないが、たとえ今はそうで なくても、それも良い」という自由さや気楽さが私たちには必要である気がし ます。その自由の気風を得るためには、どうしてもヨハネ15:4の主のみ言を強 く信じて生きる事が必要なのです。



2005年2月20日

わたしの証人となる

牧師 犬塚 修

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくだ さるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威 をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あな たがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムば かりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし の証人となる。」 使徒言行録1:6〜8

昨日より、教会の聖書日課はヨハネ伝から使徒言行録に入りました。「聖霊行 伝」と呼ばれるこの書を通して、真摯な信仰のあり方を共に学んでいきたいも のです。復活されたイエス様と出会った使徒たちは新しい時代がついに来た、 と確信して「いつ、この国は立ち直るのでしょうか?」と問うています。私た ちも同じ疑問を持っています。「この混迷するわが国、また私の回りのいろい ろな問題の解決をいつまで待たねばなりませんか。めどがつく時期を教えて下 さい。安心したいのです」と願うのです。それに対してイエス様のお答えは意 外なものでした。「あなたかだの知るところではない」と再建の時期について は明示されませんでした。その理由は「時間」の統御者は創造の神であり、も し人間が時期を特定できるようになったならば、忍耐強く、また熱心に祈る事 も、信じる事もしなくなるからと考えられます。解決の時期についていろいろ と詮索することをやめ、今、すぐにもしなければならないものを優先する事で す。それは @聖霊を受けること Aその聖霊の力によって、地の果てまでイ エス様の証人となる使命の自覚です。私たちは問題解決の時間の長短に関心が 行きがちですが、本当は「今、自分は何を求めているのか」が問題なのです。 解決の時期に関心を集中する事をやめて、無限の力の源である聖霊が降る事を 待ち望む事です。そのために共に集まり、心を一つにして祈りに専念したいも のです。祈りの中で、地の果てに至る夢や幻が啓示されていく事でしょう。



2005年2月27日

「美しい言葉を」

牧師 犬塚 修

わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物とし てお受けください。主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってくださ い。 詩篇141:2〜3

「あなたの言葉に気をつけなさい。言葉はとても不思議なものだ。それは蜜蜂 の新鮮な蜜のように甘く、そして、蜜蜂の針のように恐ろしい。 言葉はまた 暖かく日光のように、人々に祝福を与えることができ、孤独な生活を明るくす る。そして、怒り争うときに、開かれた両刃のように切り裂くのも言葉だ」( 「山頂を目指して」・Bカウマン)今から3000年前のいにしえの偉大な王であ り、また詩人であったダビデは口を「心の戸」にたとえました。彼はこの戸か らどんな言葉を出すかに細心の注意を払っています。もし寛容さと愛の言葉を 出すならば、祝福に満たされ、逆に、肉にある否定的な言葉を出すならば、悲 しい人生シナリオが展開していく事を見抜いていました。私たちは互いの交わ り中で、思いやりのある優しい言葉を投げかけて生きたいものです。教会も、 私たちの人生も、語られる言葉によってその道が決定されていくのです。ヨハ ネは、神の創造的な言葉を記しました。「万物は言によって成った。成ったも ので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:3)破壊的な言 葉は破壊をもたらし、創造的な言葉は創造的な生き方を生みます。ゆえに、口 に見張りを置き、賛美と感謝の言葉を多く語りましょう。神を愛し、人を愛す る美しい言葉の花束を、両手一杯に持って、周りの人たちにプレゼントしまし ょう。聖書は命を輝かせる言葉の宝庫です。朝、目覚めてみ言葉に親しみ、昼 や夜にも、賛美の心で生き、たとえ悲しい事や辛い出来事が起こっても、主に 任せる信仰の言葉を語る時、私たちは更に高い恵みの頂きに登っていくように なるのです。そして、私たちは少しづつ成長を遂げて、キリストに似た者とさ れていくでしょう。その望みを抱き、今、この所を最大限に感謝して共に生き ていきましょう。


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