巻頭言
2004年2月


2004年2月1日

「伝道と希望」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって 希望に満ちあふれさせてくださるように。ロ−マ15:13

願望と希望とは違うものです。願望とは、文字どおり、自分の熱い願いです。希望とは「主のみ心により、聖な るご計画に従って事が成し遂げられていくことへの信頼と確信」です。どちらかというと、私たちは願望のみに固執 する傾向があります。そして、その願いが叶えられないと、がっかりして信仰心を失ったり、イライラしてしまうのです。 その日々は、だんだん不満と怒りに満たされていく危険性があります。私たちに必要なものは願望よりも希望です。 希望は何が起こっても変わる事のない神から来る平安と感謝の日々を創り上げていくからです。創世記に登場す る老ノアは、何と全長132mに及ぶ巨大な箱舟を造りなさいという主のみ声を聞きました。気が遠くなるような時を 経て、見事完成した暁には、世界は新時代に突入したのです。完成にいたるまで、ノアも人間ですから、その心は どんなに揺れ動いた事でしょう。「海辺ならまだ分かるが、こんな山で船を作るのはなぜ?」といろいろ否定的な事を 考えると、疑問が出てきて、ある時などは、仕事を放棄したい誘惑にもかられた事でしょう。彼の願望はすぐにも建 造を止めてしまう事であったかもしれません。しかし、ノアは希望の人でした。主のご計画は絶対だから、この労苦は 主の救いのためにどうしても必要なのだと信じ、再び、仕事にとりかかったと信じます。私たちの教会生活や伝道の 歩みもこれと似ています。今は、神の聖なるご計画が分からなくても、いつか分かる日がきます。「わたしたちは、さら に彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んで いる」(ロマ5:2)私たちの希望は、天の栄光にあずかるという永遠性に基づくものです。この希望の神を信じ、この世 の風潮に引きづられる事なく、神以外の何物も恐れず、しっかりと天を仰いで生きていきたいものです。



2004年2月8日

希望に生きる

牧師 犬塚 修

忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 ロマ5:4

希望という名のあなたをたずねて、わたしは今日もまた汽車に乗る…というロマンチックな歌が一昔、 大流行しましたが、確かに「希望」という言葉は私たちの生き方を明るくしてくれます。パウロは この希望を「忍耐や練達」と一直線に結びつけました。私はパウロと共に旧約の預言者ハガイを思い 出します。ハガイが直面していた社会的状況は非常に厳しいものでした。彼は余りにも重い現実に 打ちのめされ、希望は砕かれ、絶望感に襲われていました。その時、神は力強いみ声をかけられたのです。 「今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。今こそ…勇気を出せ。 国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると、万軍の主は言われる」 (ハガイ2:3〜4) とあります。このように勇気を出して信仰に生きるならば、希望は必ず与えられます。 即ち、希望は重い現実を変えていく大きな力なのです。私たちが今、直面している悲しみやと苦しさから 逃げ出さず、じっと静かに受け止め、明るい未来を夢見、雄々しくみ言に立って生きるならば、 希望は必ず実現していく事でしょう。従って、絶え間ないプレッシャ−やストレスに負けない信仰による 粘り強さを持つ事です。忍耐と練達から生まれた希望は、私たちの心をダイヤモンドのような強さ、 また幼子のような従順さをもたらします。現実を感謝して受容し、悪魔の否定的な言葉、絶望感に 至らせる言葉を心から追い出しましょう。「練達」は永井訳では「経験」、新改訳では「練られた品性」 と訳されています。いろいろな経験を通して練られた品性が生み出され、それが輝く希望に至るのです。 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたち の心に注がれているからです」(5節) 神の愛により希望は実現していく事を信じ続けましょう。



2004年2月22日

希望をどこに置くか

牧師 犬塚 修

疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。主に望み をおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、 歩いても疲れない

イザヤ書40:29〜31

----はるか離れたところで集会が開かれました。「また、一人子供が生まれま すね」御使たちが主に言いました。「この子の成長はとても遅く何をやらせて も駄目かも知れません。それに地上で会う人からは余分の気づかいを受けなく てはなりません。この子は走ることも笑うことも遊ぶこともできないでしょう。 考えることは、雲を掴むようにとらえにくく、多くのことで適合できないので 「障害児」と呼ばれることでしょう。だから、この子の送り先は注意しないと いけません。この子の生涯が満足のいくものであることを、私たちは願ってい ます。あなたのために特別の仕事をする親を、主よ、どうか探してください。 割り当てられた役割を、その人たちはすぐには理解できないでしょう。でも、 この子とともに、きっと上から力が注がれるはずです。強い信仰と豊かな愛と が。そうすれば、彼らは、贈り物を授かった、特権を知るでしょう。彼らは貴 重な預かりものを託されたのです。天国からの特別な子供という。----東北の M教会の壁に掲げられた詩  私たちは生きる希望とエネルギ−をどこにおく事が求められているでしょうか。 自分の中にある愛と忍耐、不屈の闘志、寛容さと優しさなどに置くと、とても 辛い気がします。その生き方は理想主義的に見えますが、限界があります。自 力でどんなにがんばっても、私たちはいつか疲れ果ててしまいます。そしてす べてが灰色に見えてくるのです。私たちの本当の希望は天地創造の神から来ま す。主は私たちに豊かで無限の愛と慰め、そして生きる力を与えて下さいます。 主に望みをおく時、私たちは人を上から見おろすのではなく、共に支えあい、 共に歩く者として豊かに導かれていくのです。



2004年2月29日

私の主よ

牧師 犬塚 修

主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。    詩篇18:2〜3

ダビデは充実した生涯を送った稀に見る人物でした。彼は主なる神に、「私の 主よ」と呼び続ける信仰に生きぬきました。貧しい羊飼いにすぎなかったダビ デに驚くべき祝福が与えられたのは、ただ主のあわれみと赦しによるものでし た。彼も主に対して信仰で応えたのです。確かに、辛酸を嘗め尽くした暗黒の 時もありましたが、彼の主への信仰はゆるぐ事がありませんでした。「命のあ る限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、 そこにとどまるであろう」(23:5〜6)と主のあふれる恵みに感謝し、賛美 しています。彼には自分の力を少しも誇らず、正直に、自分の弱さを告白し、 いつも、主に助けを求める謙虚さがありました。辛い時、苦しい時、常に主に 助けを求め、子供のように泣き、叫び、頼って生きたのは見事です。私たちに とって、迷いの道は主に頼らず、自力で生きようとする生き方にあると思いま す。イエス様に「私の主よ」と呼びかけるのではなくて、自分に向かって「私 が主だ」と自負してしまうのです。この私がこれまでがんばってきたのだ、私 一人で生きてきた、と力んでしまうと、神の呼びかけを必要としなくなります 。それが高慢さを生み、正しい道を誤らせる根本原因となるのです。ダビデは 自分の罪深さにおののきましたが、主の赦しを信じて、主のもとに行くことを やめませんでした。ここに彼の祝福の秘訣が隠されています。「私が主人だ」 から「私の主人はイエス様だ」と変わる事が人生にすばらしい変化と救いをも たらすのです。たった「が」と「の」の違いですが、これで人生の方向を一変 します。それは苦悩から平安、暗黒から光明、絶望から希望、不安から平安、 混乱から秩序、高慢から謙遜へと変えられていく人生となります。主よ、呼び かけて生きたいものです。


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