巻頭言 2003年2月 |
「礼拝と権能」月間を迎えて
牧師 犬塚 修
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って 来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたが たは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。…あなたがたに命じておいた ことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがた と共にいる。 マタイ28:16〜20 |
イエス様は十字架にかかられた後、復活され、いよいよ天に帰られる時が訪れました。
今後、この荒れ狂う地上に残された弟子達の不安はいかばかりであったことでしょう
か。しかも、彼らは一枚岩の信仰に立っていた訳でもなく、その中には主の復活を、
なおも疑う者さえいた始末でした。もし、目に見える現実だけに心を奪われるな
らば、動揺し、心細くなることはやむを得ないことであったでしょう。このよう
な弱々しい弟子達に、主は力強い励ましの約束を与えられました。「わたしは天と
地の一切の権能を授かっている」と。ここに私たちの立つべき信仰の土台がありま
す。私たちの将来は自分の計画や努力、能力にかかっているのではありません。ひと
えに主の絶大な権能にかかっているのです。「次の言葉は真実です。「わたしたち
は、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。 耐え忍ぶ
なら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわた
したちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」
(第二テモテ2:11〜13)主の真実が不真実になってしまう私たちを覆いつくし、赦し
と希望を授けられるという恵みの世界が大きく広がっているのです。そのことを思
い主を賛美して生きたいものです。
平和について
牧師 犬塚 修
平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。 マタイ5:9 |
私たちの心を不安に陥れるものとしていろいろなものがありますが、その中でと
くに、甚大な悪影響を与えるものとして、憎しみの感情があります。イエスさま
はにこの憎悪の念を捨てて、平和と和解の道に生きることを指し示されました。
平和を実現することはきわめて困難なことであります。しかし、これこそ、私た
ちにとって非常に重要なことです。モヤモヤした苦い感情があると、早春の輝き
も、梅の香りも感じられなくなります。そしてまるで、時計の針が動かないよう
に、心は鈍化してしまい、正しい判断力や行動力を失うのです。憎しみは二つの
性質を帯びているように思います。一つは、極度の依存性、また自己絶対化で
す。依存性とは、誰かの評価に影響されてしまう生き方です。 自己絶対化と
は、逆に相手を無視し、自分を正義そのものと思い込むことです。その結果、
自分が何とかしなければという強迫観念に苦しみます。今、アメリカがイラク
に対する固い態度も、この自己絶対化の考え方によると思わざるをえません。
このまま、戦争に突入したならば、世界は破局に向かっていく危険性がありま
す。その企ては将来に大きな禍根を将来に残すでしょう。人命を奪うことは、
罪です。「あなたは殺してはならない」の戒めの破戒です。再び、大量殺戮を
犯してはなりません。もし、私たちが神の絶対的な権能を信じ、平和こそ、主
のみ心と信じるならば、憎しみの鎖から解き放たれて、平和の道を突き進むこ
とができるでしょう。平和樹立の可能性に全精力を傾けることです。日本もア
メリカに追随するのでなく、確固とした自立心を持つべきであると思います。
信仰と行いの法則
牧師 犬塚 修
「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。とこ ろで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされ ています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、 その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と 認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い 隠された人々は、幸いである。 ロ-マ4:3〜7 |
アブラハムは偉大な信仰者でした。しかし、パウロは私たちと同じく罪人であった、
と記しています。王ダビデの同様でした。聖書は、鋭く人間の罪深さや失敗をえぐ
り出しますが、同時に豊かに癒しも与えるのです。罪の指摘は人間の神格化を拒否
するためです。私たちは自らを神の座におこうとする誘惑に屈すると、悲劇が訪れ
ます。人間は自らを神の座においてはなりません。それは偶像礼拝の罪です。自分
は罪人であるという真摯な自己省察が必要です。それによって、不安や恐怖や憎悪
の連鎖から解き放されるのです。私たちの罪は、行いを価値基準として見る事から
始まります。「あの人は、自分のためにあれもこれもしてくれなかった」という怨
念、また「私はあれもこれもできなかった」という自己卑下が結びつくと、悲劇で
す。そこにキリストの十字架を置かねばなりません。そうしないと、一方は被害者
意識、他方は加害者意識の奴隷となります。人間は皆、欠けだらけの人間にすぎ
ず、完全さを相手に要求することはできないのです。お互いが弱い者同士として
支えあい、赦しあうことが生きる道です。偉大なアブラハムも行いではなく、信
仰による義に立たなければ生きることができなかったのです。行いによる生き方
は、傲慢か自己卑下を生むだけです。このような呪縛から解き放たれるためには、
キリスト信仰に立ち、自分と他者を、ありのままに受け入れて生きる事です。
罪の赦しによって
牧師 犬塚 修
あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置 かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られ ることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはあり ません。わたしは咎のうちに産みおとされ、母がわたしを身ごもったときもわた しは罪のうちにあったのです。 詩編51:5〜7 |
決して犯してはならない罪を犯したダビデ。預言者ナタンの叱責を受けるまでは、
罪に対しても無感覚であったダビデ。その哀れな罪人の姿には、もはや名君とし
ての威厳もなく、死を待つ死刑囚のごとしでした。その痛切なうめきと悔恨が自
作の詩に記されています。ダビデは自分の罪の淵源は、胎児の時にすでにあった
と叫びます。ダビデは罪の問題を表面的、皮相的にはとらえませんでした。自分
の中にはどうしようもない罪性があるという自覚は、痛々しいほどです。しかし、
彼は無気力に打ち沈むことはありませんでした。「ヒソプの枝でわたしの罪を払
ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください。雪よりも白
くなるように。喜び祝う声を聞かせてください。あなたによって砕かれたこの骨
が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってくださ
い。神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御
前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください」(9〜13節)
と書き綴ります。普通なら、自分の罪の現実に打ちのめされ、絶望し、自暴自棄
になったことでしょう。けれども、ダビデはギリギリの堕落への限界地点で神を
仰ぎます。どうしようもなく惨めな者、救いようのない罪人、人生の敗北者とし
て、神に向って震える手を伸べます。それは新生していく信仰者の姿でした。