巻頭言
2002年2月


2002年2月 3日

「天国にいたる交わり」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の 大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、 その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。(ヨハネの黙示録22:1〜3)

もし、リストラ、不況、いじめ、弱者への虐待というこの世の残酷な現実だけを見ていますと、心は次第に 空しくなり、生きる気力も失ってしまうのではないでしょうか。そのような心の状態が慢性化してしまいま すと、すべてがいやになってしまうという心の危険地域に入ってしまいます。何としても、心を明るい方向 に引き上げるためには、この世を超越した天国のリアリティに目覚める必要性があります。哲学者カントは 夜空を見上げて思索に耽り、不朽の名著を世に残しました。無限に広がる天は私達に豊かな発想を与えてく れる宝庫です。詩人ダビデも「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩篇19:2)と神を讃美しまし た。その太陽のように明るい楽天的な性質は、天を仰ぐ視点から育まれました。確かに天を仰ぐ時、信仰の 原点である喜びや希望に目覚めることができます。ヨハネは、パトモス島という不毛の土地、囚人を収用す る絶海の孤島にいましたが、そのような苛酷な現実の生活の中でも、輝いて生きられたのはいつも、天を見 上げ、信仰の拠り所として天国の巨大な恵みを思い描いていたからです。彼は天国を想起する信仰によって、 今まで見た事もないような美しい光景を心の目でしっかりととらえました。彼の心には、天国の荘厳な光景が 大パノラマのように広がっていたのです。私達が生きているこの所だけが現実なのではありません。私達を 待つ天国もまた、私達のもう一つの世界、更に確実な本当の世界なのです。歓喜があふれる新世界を訪れる 日を待望しつつ、今日も生き生きとした、巡礼者としての歩みを続けて行きたいものです。




2002年2月10日

天国にいたる道

牧師 犬塚 修

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも 父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)

私達は道が好きであります。柔道、剣道、華道、茶道など数多くの道があります。いずれも、道を極め ることが非常に重要であるという共通認識があるのです。しかし、その道の究極に何があるかという点 になると、何となく漠然としている感が否めません。「日本文化の「道」はマナ-−を儀式化し、神聖 化するものにすぎず、究極の目的地に到達するための、唯一最高の経路という意味に乏しい」(千代崎 秀雄)と指摘されています。確かにこの道がどこに続くのかという明確な道標が必要です。イエス様は 御自身のことを道、真理、命であり、ご自身を通らなければ天国に行くことは不可能と明言されました。 この主と共に生きる事が永遠の命に至る唯一の道であります。千代崎氏はさらに「何としても天国に行き たいという願いがキリストに出会わせる。現代日本で宣教が困難なのは、人々が余りに現世オンリ-で、 永遠への思い(伝道3:10)を失っている点にも、一因があるといえよう」と述べておられます。聖書に「わ たしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、ま た、永遠を思う心を人に与えられる(コヘレト3:10〜11)とあります。源氏物語等、わが日本の文学は 世界に誇る不朽のものですが、そこには永遠を思う心はありません。むしろ刹那主義、現世主義的面 が色濃く記述されています。その意味で、内村鑑三はこの「源氏物語」を批判しています。健全な魂は 天国を求め、そこに忍耐と希望を抱く道から育ちます。ダンテの「神曲」はその良い例です。21世 紀の時代の中で、力強く生きるためには、永遠の国を仰ぎ見て、何が起ころうとも動じないという強 い天国信仰が必要です。そのために、イエス様を信じ、受け入れて歩む事です。その道こそが、私達 を真に生かすく唯一の道なのであります。




2002年2月17日

敗者に見る勇気

牧師 犬塚 修

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 (ヨハネ16:33)

今、ソルトレ−クオリンピックが華やかに開催されています。日夜、苛酷な練習に耐え、つい に晴れの舞台に立っても、過度の緊張感に押しつぶされて、不本意な結果に終った選手は数多く います。しかし、その敗者としての真摯な姿には心打たれます。スピ−ドスケ−トの堀井学選手 も今回、満足がいく結果ではなかったのかもしれません。しかし彼は戦いの後、微笑みながら 「何度失敗しても、また挑戦します」という明るい言葉を残しました。一番口惜しく、無念であ ったのは本人でしょう。けれども、そのすべての悲しみの感情を心におさめ、満面の笑みで人の 前に立てるということは、すばらしいと思うのです。悲しみや痛みのすべてをそのまま受容し、明 日へ向うその姿には勝利者の感さえいたしました。競技でメダルを取れるのはわずか3人だけです。 あとは無冠なのです。しかし、敗れ去った人たちの中に見る誠実さ、ひたむきさ、優しさには、見 る者を勇気づける力が満ちています。私たちの愛するイエス様はこの世的に見れば、敗者の道を歩 まれました。それは人々が十字架の丘に至る苦しみの道でした。完全な勝利は死を通って後、与え られたのです。人生では、苦難に出会い、敗北を味わう事がありますが、その時、私達の信仰は本物 となっていくのです。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あ なたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金より はるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」 (第一ペトロ1:6〜7)主は全き勝利を得られましたから、私達は自らの敗北も恵みと変えられる事 を悟り得るのです。




2002年2月24日

がんばらないで生きること

牧師 犬塚 修

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人 である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。 (マタイ9:12〜13)

イエス様は現実を凝視した結果、この世界に、心身の面で完全に健康な者、また義人は一 人もいないと喝破されました。これは深遠な人間洞察です。いかに健康に見える人も実際 ば弱く、病んでいる部分を多く持っています。「しかし、今、『見える』とあなたたちは 言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハネ9:41)「私は見える、健康だ」とかた くなに言い張るところに、苦い根が隠れています。むしろ「私は病者です」と告白する砕 け散った魂の人となる事です。私達はどうしても強い自分を演じてしまう傾向があります。 自分の裸の姿をすなおに受け入れる事は案外に難しいのです。しかし、自分の弱さを率直 に認める人こそ、真の勇者なのです。私達に欠けているのは、現実をそのまま受け入れる 受容力です。必死で弱さを隠し通すと、他人の眼には、強い人に見えるかもしれませんが、 内心はボロボロに疲れ果てていくのです。そして、後ろから追われているような焦燥感に 悩みます。「自分は健康なのだから、もっとがんばらないといけない」と自分に鞭打つ事を やめる事です。本当の自分を認める事は辛いかもしれませんが、すぐに心の奥に春風が吹 き抜ける喜びがあふれてきます。そして、目から温かい涙、うれし涙がこぼれてきます。 長い間の演技の生活、また偽りの自分から解放されるからです。真の自分を発見すること はすばらしい恵みです。虚勢を張る事なく、そのままの自分を愛して生きる事、否、イエ ス様によって生かされる事です。主は「あなたは、もっと気楽に生きて良いのだ」と言われ ます。私達は病人、罪人としての自分を愛し、更に主の十字架の救いを受け入れて、豊か な者、赦された者とされる必要があるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわた しのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)



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