巻頭言
2001年2月


2001年2月 4日

水の上を歩く

牧師 犬塚 修

イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、 イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた。 (マタイ14:29〜30) 

主の弟子達は、暗黒の湖で、死への恐れと不安に襲われていました。その時の 彼らは主の助けを期待していませんでした。その理由は、主はこんな湖の真ん 中まで来られるはずがないと思い込んでいたか、または、自力で乗り切れると 思い込んでいたからかもしれません。

しかし、現実は思った以上に困難な状態 にありました。主は彼らの危険を知って、助けるために近づいてこられました。 主は天地創造の神ですから、不可能な事はないのです。彼らは主の到来に驚き、 感謝しました。

また、ペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いて そちらに行かせてください。」と思い切って大変なお願いをしました。主はその 願いを聞き入れられましたので、何と彼は水面の上を歩けたのです!

これは私達に対する明確なメッセ−ジです。つまり、いかに危機的な時であっ ても、信じて主なるイエス・キリストに祈り願うならば、主は不思議としか言 いようのない出来事を起こされるという真理の事です。不可能と思える事も、 主は可能に変える力を発揮されます。

しかし、この偉大な力を体験するためには、主を見つめ続けるという信仰の 確信が必要です。疑うと私たちは沈んでしまいます。ペトロの失敗は主から 目を離し、風(感じる現実)を気にしました。すると、「奇跡など起こるはず がない」という人間的な思いが頭をかすめました。すると、途端に弱々しく なってしまったのです。自分の行く末に不安や恐れを抱く事なく、幼子の如 く今すぐ主を信じ受け入れようではありませんか。




2001年2月11日

無造作に言う

牧師 犬塚 修

互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り 主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。 (コロサイ3:9〜10)  

自分らしく生きていない時は、私たちは悶々と苦しみます。そして段々と鬱的に なっていきます。私たちは自分の思うがままに、自由にノビノビと生きたいと望 んでいます。しかし、「そんな夢みたいなことは所詮無理だ」と思い込み、その願 いを抑圧して生きています。

「人格」のことをラテン語でペルソナといいます。これは「仮面」からきた言葉です。 つまり、人間は各々「仮面」をつけて生活しているというのです。このような仮面 生活は疲れます。本当の自分ではないからです。本当の姿を隠し、着飾って生きる ならば、それは不幸な人生です。

キリストは私たちをあらゆる束縛や抑圧から解放するために死んで下さいました。 私たちはキリストを信じることで、もはや自由なのです。誰も私たちを支配し、苦 しめることはできません。「古い人」とはキリストに従わない不従順で不信仰な自 分のことです。それをすぐに脱ぎ捨てるのです。

「しかし中々捨てられません」と言 いたくなります。しかし、難しく考える必要はありません。心からこう言うだけで 良いのです。「主よ、あなたを信じます。私はあなたによって自由になりました 。感謝します。今、私は思い切って古い自分を捨てます。」と無造作に言うのです。 それだけです。本当に捨て切るまでには一生かかるかもしれません。ですから、 その日まで、暗い顔をして敗北者のようにして歩くことはありません。むしろ、 すでに捨てた者として無造作に自由宣言して生きることです。「新しい人」とはキリ ストによって再発見した本当の自分のことです。




2001年2月18日

幸いな人となる

牧師 犬塚 修

いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。 いかに 幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。詩編32:1〜2  

自分が考えたように物事が進まなかったり、ひどい失敗のして落ち込んだり、人々から 批判的な目を感じる時、私達は自分に脂肪落胆してしまいます。しかし、そこでは、 信仰の法則を働かせる事が肝要です。その時こそ、秘めていた伝家の宝刀を取り出し、 名刀村雨の切れ味で、落ち込みそうになる心を一刀両断に断ち切るべきであります。 そうでないと、何のために信仰生活に励んでいるのか分かりません。

人の期待に応えられなかった時、責任感の強い誠実な人はひたすら、自分を責めてし まうでしょう。だが、それは正しい道ではありません。生き方には三つある気がします。 自分の失敗を棚に上げて人を責めて生きる事。これは他殺型で人を傷つけていることにも 余り気がつきません。第二のタイブは自分を責める事。これは自殺型です。マジメな人 はこうなりやすいと言えます。これは自分の足を泥沼にとられる結果となります。

第三はすべてを感謝して天真爛漫に生きる人です。それは生来の性格としてではなく、 キリスト信仰から生まれた新しい人格です。この人はある物事で、悩むのも喜ぶのも 本人の選択と知っています。失敗で苦しむことは誰にでもできますが、それを感謝して 神の赦しを喜べる事は中々できません。しかし、信仰に立つと、このことができるよう になります。それは傲慢にも開き直った生き方ではなくて、信仰によって勝ち取った涙の 収穫物なのです。

「私は神様によって赦されて生かされている!」と高らかに主の十字架 のみを誇って生きたいものです。




2001年2月25日

到達したところから

牧師 犬塚 修

いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。 フィリピ3:16  

数年前まで日本のジャンプ陣は無敵を誇っていました。しかし、この数年伸び悩んで いると言われています。専門家から見ると、その理由は、日本選手は強い外国選手の 事を気にし過ぎ、比較する事で、自意識過剰になっているからだというのです。 その選手だけには負けたくないという焦りと力みが、心身のバランスを崩していると ありました。

根深いコンプレックスや、負けん気、過度の緊張は選手を縛り上げてしまいます。他と 自分を比較すると「このままで良いのか‥」と不安になります。比較する事は心にスト レスと危機をもたらすのです。また、自分のしている事が非常に愚かなものに見えて しまうのです。しかし、そんな時こそ、「自分なりにできたら、後は神様にまかせる ことにしよう。何とかなるものさ。」と心を決める事です。負けるものかではなく、 今回は負けても勝ってもどちらでもいい、主の導きと支配は全く変わらないと確信す る事です。

そうすると、心にゆとりが生まれてきます。神は私たち一人一人に固有な 個性、ユニ−クさを与えられました。その豊かさは、すばらしくとても他と比べられ ません。従って、自分が苦労して到達した今の地点を大事にしましょう。そこは私たち が神と交わるすばらしい恵みの場所です。私たちに必要なものは信仰から来る自信です。 弱い自分であっても私は主に結ばれている事で強くなれるという確信です。自分を 嫌ってはなりません。自分を好きになり自分の無比の価値に気づく事です。なぜなら ば、神は私達に「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わ たしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支 える(イザヤ41:10)と言われるからです。



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