巻頭言
2000年2月


2000年2月 6日

「勝利の前進をする教会」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、 わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。 (ヨシュア1:5,6)

モーセなき後、ヨシュアはどんなに不安にかられたことであろう。わたしたちは時々、 信仰が強くなったり、弱くなったりする。しかし、いかなる状態にあっても、神は 私たちを自分の子として見守り、助け出してくださる。

あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命 を救うために、今日のようにしてくださったのです。(創世記50:20)と ヨセフは告白した。彼は人生で数多くの苦渋をなめた。悪が自分の運命を狂わせる ようにも感じた。しかし、自らに起こったすべてのことの中に、神の御手があると 信じた。その信仰によって、試練をも善としてとらえた。また、彼は悪さえも善に 変えることがおできになると確信した。彼は神の勝利を幻に見たのである。

ここでも、ヨシュアはイスラエル民族の将来を考えると、心配で夜も眠ることが できなかったであろう。しかし、その魂の危機的な時点で、彼は神のみ言、力強い 約束を信じた。「どんなにあなたが弱くても、私は決してあなたもイスラエルも 見捨てはしない」と主は言われたのである。

「強く、雄々しくあれ。」とは将来を悲観したり、自分の失敗を見て悩んだり、 また自分の弱さを心にとめることを拒否することである。それは、悪の誘惑である。 ひたすら、主の赦しと恵みに心を向けよう。ペトロは荒れ狂う風を見て恐れ、 無念にも湖に沈んだ。私たちもそうなり易い。ただひたすら、主の勝利を見つめ、 雄々しく強く確信したいものである。




2000年2月13日

焦点

牧師 犬塚 契

パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問するものはだれかれとなく歓迎し、 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教えつづけた。 (使徒言行録28:30,31)

乱れた世界都市、ローマに囚人としてパウロはいた。キリスト者迫害の冷たい風の音が、 きらびやかなローマに響いていた。それは、まるでナチス支配下のドイツを思わせる。時 代背景を考えると上記の聖書個所は、パウロの明るく幸せな老後生活を描いているのではない。

「自費で借りた家に丸二年間住ん」だ後、パウロがどうなったのか?二年間のローマ軟禁の後、 釈放を受けた彼は、再び各地を伝道した。そして、67年ごろ皇帝ネロの統治下の中で打ち首に よって、生涯を終えたといわれている。しかし、その死について記者のルカは記していない。 あくまでも「焦点」はパウロではなかった。使徒言行録の焦点はパウロの伝記ではなく、 イエスキリストの福音であった。

私たちは、「焦点」を何処に絞るだろうか?どこに目をつけるだろうか? 『目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る  天地を造られた主のもとから。』詩編121編1,2節。行き詰まった時、詩編の記者 はすぐに山を見て天地を造られた主を仰いだ。そこから、本当の助けが来る事を本気で信じて いたから。わたしたちも「焦点」をずらさないでいたい。余計に思い煩うことの多い中、やはり 神様のところにいつも帰りたいのである。




2000年2月20日

自分を低くする

牧師 犬塚 修

だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていた だけます。 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にか けていてくださるからです。(第一ペトロ5:6〜7、 フィリピ3:18〜19)

最近の世の中を見ていると今まで権威と見なされていたものがガタガタと崩れ去っていく ことを感じる。また警察の信じられないような失態には言葉を失つてしまう。いつしか 「ことなかれ主義」、「無責任」、「責任転嫁」、「虚偽」などが恐ろしい勢いではびこって しまうようになった。

「神なき教育は悪魔を作る」という言葉を聞いた。 日本では自分の良心に誓いを立てて、裁判所で宣誓するというが、果たして私達の良心 は汚れていないと断言できるだろうか。私は一種の恐れを感じる。神に対して自分の 応答責任を明確にする事が肝要である。人間は権威の座に長くいると、それに甘えるよ うになる。最初は義の番人として頑張っていても、立身出世やその他もろもろのために、 自己保身の道に踏み込んでいってしまう危険性がある。

また私達も高ぶっていると、次第に自己中心的にものを考えるようになり、知らず知ら ずの内に高慢となり、それが自己絶対化へと至り、ついには自己神化へと至る。 神は言われる。「自分を低くする」謙遜さを求めよと。しかし、正直に言って自分を低 くすることはとても難しい。また相手の言葉に謙虚に耳を傾ける事も。むしろ悪と感じる 時、私達はその人を裁きたくなってしまう。そしてどこまでも相手を追いつめ、責めぬく ことさえする。

なぜ私達は心が高 ぶったりするのであろうか。それは私達の心に思い煩いがあるからだとペトロは言う。 いろいろと心配し不安にかられてしまう。




2000年2月27日

自分を低くする

牧師 犬塚 契

あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、 わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。  わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。 (イザヤ書46:3〜4)

人間だから、痛んだり、喜んだり、悩んだり、笑ったり、苦しんだり、調子にのったり、 後悔したりします。でも人間としてこの世に生を受けてよかったです。  恥ずかしかったり、情けなかったり、涙も出るけれど、やっぱり、カエルに生まれな くてよかったです。カエルがホホを赤らめて「愛してる」というのを聞いたことがあ りません。カエルが真剣に葛藤して生きているのを見たことがありません。

上記の御言葉によって、生まれた時から、神様の愛の中にいたことを知りました。白髪 になるまで、背負われていく事を知りました。

何気なく、向かえてしまう誕生日。「あぁ、年取ったなぁ」だけではなかったのです。 24年前、病院の中で、喜んでいたのは、両親だけでなく、神様もだったことを思いました。 「さあ、わたしはあなたを愛している。あなたはわたしを愛するか?」。神様へ応答す る存在として、人は造られました。必ずしも、きれいな応答はできませんでした。音信不 通で心配させたりもしました。しかし、それをも、キリストの血によって許してください ました。

せっかくですから、いいとこ取りのおいしい人生を望むだけでなく、ちょっとほろ苦い中 でも、主の御手の中で生かしていただきたいと願っています。いつでも、「ハレルヤ」と 口をついて出るように、祈っていきたいものです。ハレルヤ!!



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