巻頭言
1999年1月


1999年1月 3日

言葉の聖別

牧師 犬塚 修

あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。(マタイ12:37)

新年明けましておめでとうございます。今年、主の豊かな祝福が ございますようにお祈り申し上げます。

さて、今年、是非とも実行したいと、願っている一つのことが あります。それは「言葉の聖別」です。

言葉は昔「言霊」と言われた 程、大変な力を有していました。言葉一つで倒れたり、立ったりした のです。もし、私たちが「私は出来ない。無理だ。やはり不可能だ。 諦めよう。人生はまっ暗だ。」などという自己破壊的な言葉を使って 歩むならば、その通りの一年を送るでしょう。それは、悲観的、 敗北主義の人生です。また、主のみ心が何であり、何をなすべきかを 知っていながら「私は信仰に生きたくない」という無関心、無責任な 心を抱くならば、一年は無為なものとなって過ぎ去ることでしょう。

しかし、主のあわれにみ支えられ「私は確かに弱いが、主によって 強くなろう。主のために、あれも、これもしたい。必ず出来る。 どんなことも感謝し、喜ぼう。試練さえも喜んで耐え忍ぼう。 主は『あなたがたに出来ないことは何もない』(同17:20)と言われた ではないか」と、日々自分に言い聞かせ、大胆に行動する人は、 その言葉によって義とされ、明るく着実な道を突き進んでいくでしょう。

そして、今年の大晦日「アァ、今年は素晴らしい一年だった。」と 大いに歓喜の告白ができると信じます。



1999年1月10日

「礼拝の生活」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」 (ローマ12:1)

「礼拝生活」と「礼拝生活」とは、 たった一文字しか違いませんが、 その意味するところは天と地が隔たっている程、異なります。

前者は、礼拝と生活が分けられています。礼拝を守ることはすばらしいことですが、 それと同時に、み言の通りに生きようと志すことは更に重要なのであります。  私自身、早天祈祷会において、キラリと光るみ言を発見し、喜んで一日を出発す るのですが、忙しさの中でいつしか、み言が全く頭から消えてしまうこともあります。 本当にこれではいけないと悔い改めずにはおれません。

デンマークの哲学者キルケゴールは、当時の社会を激しく批判しました。それはぬる ま湯のような状態に、国教会自体ががまどろんでいたからです。それは、 「礼拝生活」 であって、そこには生き生きしたダイナミックな信仰的応答が見られません。

一方、「礼拝生活」とは、み言に応答する誠実な信 仰生活のことです。その人は、絶えず、 「神に喜ばれる道とは何か?」を問いつつ、自分の体を主に献げて生きようと志します。 礼拝を献げた後も、毎日が礼拝という思いで一週間を過ごします。時には、自分の弱さ 故に失敗したり、挫折することもありますが、すぐに悔い改め、再びみ言を実践しよう と努めます。その人々にとっては、毎日はみ言の実験場であります。その人は、すばら しい祝福を得ていく神の人となるのです。



1999年1月17日

鋭い洞察力をもって

牧師 犬塚 修

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。(ヨハネ一4:1)

最近、平塚市内で痛ましい殺人事件が起こりました。飲むべきでない薬を飲んだことでの 事件でした。無念です。私たちは、人の言葉に容易に乗せられてはなりません。人の言動 の中に、善と悪を鋭く見抜く力が必要です。そして、「おかしい」と思ったことは、明確に 「ノー」と宣言すべきです。信仰による純真さと、正しい批判力とは矛盾せず、むしろ キリストに近くある人は、悪魔的なものを見抜くことができるようになるのです。 肉的に動くと、後には辛い結果になるケースが多いのです。

エルサレムの総督となった ゲダルヤは、無防備な人ですぐに人を信じ易い人でした。彼は正しい友の忠告に耳を 傾けず、策略家のイシュマエルを信頼したばかりに、彼によって殺されてしまいました。 (エレミヤ40:13〜41:3) 人情や自分の好悪の感情で決定をくだしてはいけなかったのです。むしろ、彼は自分の 一歩一歩を慎重に、み言と祈りによって進むべきでした。人に欺かれないで生きるために、 正しい識別力を持つことです。

この十年で、レーニンについて全く別の解釈が出てきています。 それによると彼は、「権力だけを望んだ冷笑的、偏執的な暴力好きな人物」であって スターリンにも悪い影響を与えたと言うのです。しかし、多くの民衆は、レーニンを 偶像化し、「建国の父」として崇めました。

私たちは、み言に立ち、祈りつつ歩む ことによって、義の道を行くことができるのです。



1999年1月24日

天国の鍵を持つ人

牧師 犬塚 修

わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが 地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも 解かれる。(マタイ16:18〜19)

「礼拝の生活」は、また「礼拝者の生活」のことでもあります。ペトロは原始教会に おいて、まさしく礼拝者、また、教会を建て上げて行く人でした。この「岩」とはペ トロの「あなたはメシヤ、神の子です。」という信仰告白を意味しました。神に命を かけた信仰の上に、教会は力強く建設されて行くのです。そして、驚くべき天の権能 がペトロに与えられました。無名の一漁師にすぎなかったペトロは、一瞬にして天国 の鍵を持つ霊の人と変えられました。

私たちも、ペトロに似ています。主を信じ、告 白して礼拝者として生きるならば、私たちすばらしい霊的力が既に与えられているの です。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものと なった民です。」(ペトロ二2:9)

アウシュビッツの強制収容所で地獄を体験したフラ ンクルは、「人間としての尊厳」を徹底的に踏みにじられる恐ろしさを味わいました。 つまり、ユダヤ人は、「私はつまらない人間です。生きていてはならない無価値なもの であります」と無理矢理に思わせられる屈辱感にさらされた、と書いています。それが 私たちを死への誘惑、無気力へと引き込むのです。

しかし、今や大胆に、「私は絶大な 価値を持つ人間だ。主キリストの故に、私は勝利者だ」と宣言すべきなのです。勝利の 宣言をなし続けていく人は天国の民なのです。



1999年1月31日

「礼拝の生活」の実践

牧師 犬塚 修

あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる 者である。(レビ記19:2)

「礼拝の生活」とは、神の栄光を現すために、犠牲や勇気ある決断をする生き方です。

「ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年よ、大志をいだけ)」で有名な、札幌農学校 の初代の校長であったウィリアム・クラークは、剛毅な信仰の人でした。彼は1876年、 玄武丸に乗り組み、小樽に向かう船上で、札幌農学校の教育問題について、開拓使 次官の黒田清隆(のちの首相)と大激論をしています。黒田はキリスト教禁止令が 解かれて間もない時に、聖書を学生たちに教えることは絶対反対と主張していました。 しかし、クラークは「聖書こそ徳育教育にはなくてはならない書物」として、断じて 譲歩せず、ついに黒田は黙認するしかありませんでした。彼は遠大な幻を抱く人でした。 そして、クラークの人格的感化の下、内村鑑三や新渡戸稲造などら多くの俊英が世に 輩出されるに至りました。

また、一つのエピソードが伝えられています。クラーク自身 は酒や煙草を飲むことは信仰の妨げにはならないことを知ってはいましたが、これらが 学生たちには悪い影響を与えてしまうことを危惧し、米国から持参してきた葡萄酒や ビールをたたき割り、学生と共に「禁酒禁煙」の誓いをしています。

彼の中には、 義と愛が渾然一体となった信仰が生きており、聖なる生活を志していきました。 のちに名高い「札幌バンド」は卒業生たちによって結成され、清冽な霊的感化を 明治の若者に与えていくこととなります。イエスのために生きる人生には常に 光輝が放たれていくのです。

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