巻頭言
2024年1月


2024年1月7日

「希望が語り継がれて」

犬塚 契牧師

主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。      <イザヤ書61章1-4節>

 イザヤ61章の時代背景はバビロン捕囚からの解放後と読めるようです。60‐62章というまとめの中で、その間に挟まれるように突如、預言者の召命が確認されています。60章は「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」というまぶしいばかりの預言でした。62章もまた諸国民の救いの預言です。この預言者の言葉は、受け入れられなかったのでしょう。バビロンから期待して帰還して戻った人々が、荒れ果てた故国の現実の厳しさに打ちのめされています。希望の預言は、絵に描いた餅であり、ぶら下げられた届かぬ人参のごとくに聞こえても不思議ではありません。人々はもう反応しなくなりました。笛吹けど踊らず…。彼は、人々に向けて、そしてまた自分に向けてもか、召命を繰り返す必要があったのでしょう。イザヤ書を読みながら、預言の当たりはずれということを考えてしまいます。今もって実現していない世界の悲しみの映像が、行間を埋めるかのごとく、脳裏に差し込まれてきます。何を信じ、何は期待していいのだろうかと思います。それはまるで帰還しつつ失望した民の心持ちです。学びつつこんな言葉を見つけました。「世界と歴史のむなしさと戦っているのはむしろ神なのである」(左近淑)イザヤ書を読み終えつつ、語られた預言の真贋を見極めるが大切なのではないとうすうす知らされてきました。むしろ、打ち捨てることなく語りかけ続ける神の御想いこそ、覚えられるべきことでした。▲ルカ4章で主イエスは、61章を受けて、預言の成就を宣言されました。受肉、生涯、十字架、復活、昇天によって、示された神の御想いは、日付を変え、恵みの源となりました。



2023年1月14日

「いちじくの木の下で」

犬塚 契牧師

ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。    <ヨハネによる福音書1章43-51節>

 聖書にほとんど登場することのない主イエスの弟子ナタナエルの場面です。バルトロマイと同一人物ではと言われ、だとすればインドに宣教に出かけたと伝承が残る程度です。先に弟子となったフィリポから、主イエスを紹介されますが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えます。彼は聖書に精通したのでしょう。旧約聖書に一度たりとも登場しないナザレという町が、神の歴史の舞台に登場するとはありえないと考えていました。紹介者フィリポは議論しません。「来て、見なさい」とだけ勧めます。きっと伝道とか宣教とか、そういうことなのだろうなぁと思いつつ、余計な言葉を使い、余計な気を使い、余計なことをしつつ、余計に余計を多用しています。▲主イエスがナタナエルにかけた言葉が印象に残ります。「あなたが…いちじくの木の下にいるのを見た」。赤いポストの横にいたとか駅の改札口で見かけたとかスーパーで買い物をしていたとかの目撃証言ではありません。「いちじくの木の下」とは目印ではなく、イスラエルでは大きな葉をつけたその木陰で瞑想し、黙想し、神の言葉を考え、学ぶような特別な場所でした。いちじくの下に平和と静けさがあり、そこで心の渇きを覚え、うろたえ、思い煩い、祈っていたのでしょう。主イエスはそれを知っていると言われました。ナタナエルがどこを生きているのか、何を抱えているのか、祈っている事柄は何かを知っていると言われました。ナタナエルは主イエスの弟子となりました。▲いちじくの木の下がありますか。主イエスに知られることを静かに覚える場所、時間をいただきたいのです。



2023年1月21日

「イエスの時の中で」

草島 豊牧師

ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を 呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 <ヨハネによる福音書2章1〜11節> 

 今日の聖書の物語は結婚式の場面。大切な結婚式に欠かせないぶどう酒が途中でなくなってしまった。母がイエスに相談すると、「そのことが私とあなたにとってそんなに大事なことなのか、私の時はまだ来ていない」とそっけない。しかしイエスは指示を出し、召使い達が言われた通りにすると、水がぶどう酒に変わった。「わたしの時」とはイエスが十字架に磔にされ殺され、復活し、天に戻る、そして聖霊として弟子たちに働く時のこと。▲ヨハネの教会の人々が日々の迫害の中でこの物語を読む時を想像する。イエスが語る「わたしの時ではない」というのはその通り。確かにカナで婚礼が行われたこのときはまだイエスの時ではない。しかしこの物語を読む人々はもう既にイエスの十字架も復活も知っている。イエスが「まだわたしの時ではない」と語るとき、ヨハネの教会の信徒達は「ああ、そうだ確かにこのときはイエスの時ではなかった。しかし、いまはイエスの時だ。いま私たちはイエスの時の中にいるのだ」。そう思ったのでは。そして私たちも。▲私は「イエスの時」で平和がこの世で実現するときを思い描く。人と人が互いに愛し合う時。憎しみや支配ではなく、お互いの存在を喜び合う時。しかし世界を見渡すと人と人とが争いあい殺し合っている。本当にイエスの時の中にいるのか、神の守りの中にいるのか信じられなくなる。しかし私たちは神が働いていると言うとき、いったい何を期待しているのか。神が大きな力で何もかも変えてくれることを期待してはいないか。▲人間は欲深く、ある人の願いをそのまま実現すると他のだれかを苦しめてしまう。だから、むしろ人と人が気づいて、変わっていくように神は望んでいる。神の起こす奇跡は一見小さなものにすぎないけれど、確実に人を、世界を変えていく。今はイエスの時。私たちに神は働かれている。



2023年1月28日

「サマリヤの女の物語」

犬塚 修牧師

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 <ヨハネによる福音書4章1〜26節>

 (1)二千年前のサマリヤ人は、イスラエル人から差別され、見下された民と見なされていた。しかし、イエス様はあえて、この一人の「サマリヤの女」の所に行かれた。彼女は気づいていなかったが、主はこの女性のすべてを知っておられた。主にとってこの人は、無価値な者ではなく、非常に価値ある存在であった。(2)私たちもまた、この女性と同じような恵みを受けている。私たちはみ言の中で、主と出会うという形を取るのである。(3)民の罪は「生ける水の源であるわたしを捨てて、無用な水溜めを掘った」(エレミヤ2:13)事であった。「水溜めの水」は、少しづつ腐り始める。この水は、民の偶像礼拝を暗示している。また、人間の「限界・罪」も示している。人間中心主義に立ち、まことの神を畏れる事なく、不従順になって、主に反抗し続けるならば、悲しい結末を招くであろう。私たちは決して不信の人間になってはならない。(4)「生ける水」は、泉から湧き出るように、清い無尽蔵な恵みであり、また聖霊ご自身の事でもある。主が、私たちに与えられる水がこれであり、「永遠の命に至る」ものである。(5)その水を得るためには、ある時には、深い谷底へと下って行くようなつらい試練を体験する時がある。イエス様の一言は、彼女に霊の目覚めを与えた。「私はこれまで、どんな水を飲んで生きて来たか」と自問したであろう。しかし、苦難、罪、孤独、不安、寂しさ、悲哀、失望、絶望などの中で、癒されていく恵みを、イエス様との語らいの中で発見していった。(6)私たちも、自分の傷の痛みや闇の中でこそ、救い主と出会う事ができる。自分が弱い罪人と自覚した時、罪の赦しを受ける礼拝に与る。それは、一対一というイエス様との交わる事が許される恵みの世界である。その人は「霊と真理をもって」礼拝する人となる。「霊」は神からきたものであり、「真理」は「誠実さ・ありのまま」という意味である。この女性のように、幼子のような心で、裸になって、主のみ前に出たいものである。




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