巻頭言
2023年1月


2023年1月1日

「神様のいるところ」

犬塚 契牧師

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。…その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。      <ルカによる福音書2章1−21節>

 世界で最初のクリスマスの混乱を読んでいます。人口調査の号令が遠慮なく庶民生活を騒がしいものとしました。父親の知れない妊婦一人をナザレに残しておけず旅立ったものの、旅先での出産を余儀なくされました。神の御子イエスの誕生にして、ベツレヘムは泊まる場所を用意できず、家畜がいなかった家畜小屋の飼い葉桶を準備するのが精いっぱいでした。人口調査にも呼ばれない羊飼いたちは社会から世間から忘れられた存在で、まして主の天使の訪問を受ける準備などできていませんでした。当然、「彼らは非常に恐れた」のです。あらためてクリスマスの記事を読みながら、誰一人としてそれを迎える用意が整っていなかったことを知ります。▲地上に生をいただいた誰もが、それぞれの人生に傷口を抱えていきています。弱さを知らされ、恥があり、悲しみもあり、失敗あり、台無しを思い、汚れがあるままです。よき知らせは、どこか彼方のはなしです。準備は整っていません。飼い葉おけを囲む人たちや羊飼いに伝えらえた救い主誕生のニュースは、そんな現実を抱える人たち一人一人に宣言するものだと思います。クリスマスは準備は神の方にあるようです。天の使いの宣言が響きます。「いと高きところには栄光、神に(あり)、地には平和、御心に適う人に(あり)。」



2023年1月8日

「十二歳のイエス」

犬塚 契牧師

すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 <ルカによる福音書2章41−52節>

 ヨセフ一家のファミリー旅行でなく、一族で過ぎ越しの祭りに参加していたのでしょう。先に歩いた女性たち一行に交じっていると思ったヨセフと13歳の成人となる準備の年、その自覚と共に男性陣と歩いていると思い込んだマリアが、その日の野営地で合流し、わが子イエスがいないと分かった時には慌てたと思います。子どもの迷子は、親の心を途端にボロボロに打ち崩すものでしょう。瞬時によからぬことがよぎります。そして、3日間探したようです。余計に時間がかかった理由は、まさか神殿にいるとは思わなかったということでしょう。ようやく、見つけた時、マリアは言いました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」必死に探し求めた労力と一族みなに迷惑をかけた申し訳なさ、いるべきは一族の中・私たち家族の内であるべきだという所有の表明が言葉となって出てきました。しかし、主イエスは答えます。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」。これがルカ福音書の最初の主イエスの言葉でした。父の家があることの自明さとそこにいることの歴然を、母マリアに返すのです。マリアはこれらのことをすべて心に納めていたとありました。そして20年後の過ぎ越しの祭りが始まる時、主イエスはローマの死刑囚でした。そして、磔刑に処せられます。復活前の最後の主イエスの言葉は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」でした。「父の家」「父のものの中」にあることの自明や歴然があり、最後まで御手にゆだねることのできる神がおられます。2023年は、そんな気づきから始めてみたいのです。



2023年1月15日

「荒れ野の試み」

犬塚 契牧師

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 <ルカによる福音書4章1-13節> 

 イエスキリスト宣教開始前に受けた誘惑の3つ。石をパンに変えてみよ、多くを所有してみよ、天使が支えるか試してみよ…それぞれの誘惑は、「自分の能力を示すこと」であり、「権力を求めること」「人の関心をかうこと」といえるでしょう。人生の行程において何度も繰り返す「私は何者か」の質問に往々にしてその3つより、答えを導きだそうとするものです。しかし、その獲得上昇型の人生は、焦りと不安と不満でいっぱいともなりえます。むしろ主イエスは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の言葉に「何者ぞ」の答えを得ました。神の言葉に耳を傾けながら、下降、喪失の中でいのちの気づきへと価値の転換を得ていきたいと思います。読み飛ばしていた行間や踏み潰していたサイン、認め得なかった弱さを拾いなおす時をいただきながら、喪失と下降の中で、主イエスキリストを救い主と告白して歩みを進めたいと願うのです。そのただなかで主イエスを発見いたします。「主よ、ここにおられたのですか」「主よ、ここに来られたことがあるのですか」私たちがハマるような、どの深みにも神の御名が刻まれてあります。ただ、おぼろに映るものを見る私にとって、「神われらと共に」とは、疑いようのない確信というよりも、断片であります。一切を解決させる魔法ではありません。それでも、その断片は少なくとも人が刹那へと惹かれるのを守り、生かしめる確かな力です。



2023年1月22日

「あなたの罪は赦された」

犬塚 契牧師

しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。     <ルカによる福音書 5章17-26節>

 主イエスの働きが目立ちはじめて、ガリラヤ、ユダヤ、エルサレムの宗教的指導者が監査に来ていたようです。熱心に聞く人たちと冷ややかな視線の入り混じった空間は、緊張感を生み出していました。そこに中風の人が運ばれてきました。それは体の麻痺ですが、急患とは思われなかったのでしょう、道を開けてくれる人はいませんでした。そして、彼らは大胆にも屋根をはがします。▲集会が終わるのを待ち、予約でも取って、その後に診てもらえばよかったのでは思います。舞い上がる土埃と下から聞こえる怒号、のちの屋根の補修など考えると懸命とは思えません。ただ主イエスはなんだか喜んだように思います。病が罪の証拠と理解されていた時代です。そこで響いた罪の赦しの宣言は、神との関係の回復を意味していました。そして、あえて公然と行われた癒しによって、地域社会への回復もあったでしょう。また彼は「神を賛美しながら家に帰って行った」ので、家族との回復をありました。なんだか星野富弘さんの書かれた詩を思い起こします。「神さまがたった一度だけ、この腕を動かしてくださるとしたら、母の肩をたたかせてもらおう。」▲殺伐で始まったこの記事ですが、終わりにはそんな空気が一掃されて、天井にあいた穴から青空が晴れ渡るのが見えるようです。「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。(26節)▲主イエスがおられる場においては、のけ者とされた人をから豊かな恵みが流れます。



2023年1月29日

「はっきり言っておく」

犬塚 契牧師

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。  <ルカによる福音書23章42−43節>

 1月16日の早朝に小川正広兄が召され、24日に告別式を教会にて行いました。70名以上の方々が来会くださり、見送ることができました。▲少し前までお元気に歩かれていた姿がありましたから、訃報は驚きでした。お伝えした方々も同様でした。そんな中で「うらやましい」と言われたのは、年が近い方でした。ここ数年、「長く生き過ぎた」や「ここまで生きるつもりはなかった」との嘆息を聞くことが多くなりました。もうこの地での生涯は充分とのことのようです。私自身は、聞くだけで、返す言葉を探しています。老いと共に、どこにでも行けた体が弱り、世界は小さくなって、近所から、家の中、ベットの周りとなってきます。存在するすべてのものが死に触れられ、死に晒されています。果たして、次に向かう場所は、本当によいところなのか否か…。▲十字架上、最もみじめな姿である主イエスは、隣の強盗の必死の懇願を聞き、答えます。「もう手足の自由もない、無念だ。残念だ。この状態でできることなど何もないのだよ」というものではなく、「はっきり言っておくが、(アーメン、アーメン、ソイレゴー)あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。そんな言葉でした。「アーメン、アーメン」、それは強い言葉です。▲「生かされて生きている」私たちはそう言います。事実でしょう。それはあろうことか、赦されて生きていることでした。いのちの創造主が息を戻されるまで、静かな感謝で一日を始められないかと切に祈るものです。




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