巻頭言
2022年1月


2022年1月2日

「この方こそ神の子」

犬塚 契牧師

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。…わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」 <ヨハネによる福音書1章29-34節>

ヨハネ福音書の1章を読んでいます。最初の1節は、「初めに言があった。」と創世記を書き改めるような大胆なものでした。またヨハネ1章は「その翌日」という言葉が多用されています。(29、35、43節)丁寧に時系列に並べた記録というよりも、それは創世記の「第一の日である」「第二の日である」「第三の日」…と綴られた天地創造を意識して書かれています。世界の始めと同じような大きな出来事がイエスキリストによって起きているのだと伝えているようです。創世記にしろ、ヨハネ福音書にして、めくられていく一日一日が神様の御想いの中で脈動しているように感じて読んでいます。▲29節以降は、洗礼者ヨハネが主イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と名指しするシーンです。旧約聖書中の預言者が一人として成し得なかったメシアの指名をヨハネがすることになりました。彼はここで二度も「わたしはこの方を知らなかった」と語っていますが、彼が知らないはずはないのです。母親であるエリサベトとマリアは親戚であり、ヨハネは主イエスの半年前に生まれた親類でした。ならば、「神の子」であることを知らなかった、気づかなかったということでしょう。しかし、知り得た理由も書かれていますが、それは親類ヨハネにしても超自然的と言えるような”霊”が下って知ったというものでした。このイエスには、外見、容姿には目を見張るものはありませんでした。ただ神の霊がそれを伝えます。しかし、2000年後を生きる者としては、ずるい書き方に思え、そう言われてしまうともう確認しようがないのです。お手上げでした。▲天地創造とヨハネの1章の呼応は、今日もまた響き合うと理解してよいでしょうか。ならば、2000年前の確認は今日も刷新され得ると受け止めてよいのでしょうか。「神の子」である証拠、またヨハネがこの福音書の最後にトマスに言わせた「わたしの主、わたしの神よ」との告白は、2000年前の証拠に依拠する必要などまったくないようです。今日を新しく創造される神の前に皆同様に立たされているようです。



2022年1月9日

「福音のスタート」

犬塚 契牧師

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。       <マルコによる福音書1章14-15節>

クリスマス礼拝、イブ礼拝をささげ、教会の一年が終わろうとしていた昨年の暮れ、突然に義母が浴室での事故で召されました。祖父母の介護を終え、いよいよこれからご自分の時間を生きてほしいと願っていた矢先でした。百歳近くまで長生きする妻の家系を思えば、20年も早い別れとなりました。まともな親孝行ひとつさせてもらえませんでした。あまりに宿題が残されすぎたせいか、「このままではおかしい」と心が反応し、隣の部屋にいるかのように思っています。誇張でも、美化でもなく、捧げつくした母には、相応の報いがあっても良かったのにと感じますし、帳尻がまるであってないように思います。それでも、母の面影や霊性(信仰姿勢)はそれを不満として残させずに、やがての希望へと変えてくれるので、とても不思議な気持ちです。このことを「天国が近くなった」と表現してもよいのでしょうか。▲救急車で運ばれた母の横で、普段祈らぬ義父は祈りましたが、叶いませんでした。…にも関わらず、教会で告別の時を持つことを涙ながらに望まれました。あり得ないことでした。土壇場で力を発揮しない神は、役立たずのはずです。妻のこれまでの献身的な働きを思えば、キリスト教の神はどこにいるのかと言えなくもない。私たちは、そういった言葉の引出しを持っていて、開ければたくさんの不平不満が溢れ出るかも知れません。しかし、溢れさせたところで、本当の慰めには繋がらないだろうとどこか知らされています。義父もまた主イエスキリストを最後まで信じた妻の神にすがろうとされました。義父の敬虔さ、謙虚さもさることながら、その姿から、静かなる神の迫力を思ったのでした。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(ヨハネ11:40)▲パイプ椅子と長机の殺風景な葬儀社の応接室。母の教会の牧師が打合せ前に亡骸に手を置いて、これまでの感謝と慰めと天への希望を祈りました。他の牧師がそう祈るのを聞きながら「狂った祈りだ」と思いました。この状況での希望は狂っていました。しかし、私たちには、本当に普通でないような、狂った希望が必要です。▲「時は満ち、神の国は近づいた」マルコ1章の主イエスの宣教のはじめもまた尋常ならざる希望の言葉でした。



2022年1月16日

「罪人を招くために」

犬塚 契牧師

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 <マルコによる福音書2章13−17節>

新進気鋭のラビ・イエスの人気は日ごとに高まっていたようです。汚れた霊が追い出され、重い皮膚病の人が治り、中風の患者が立ち上がって歩き始めました。噂が噂を、人が人を呼び、行く先々で人だかりができていました。そんな熱狂的な群衆を眺めながら、座っている人がいます。徴税人のレビでした。他の福音書と比べて読めば、12弟子の一人マタイの可能性があります。同じ徴税人だったザアカイは、必死に木に登ってイエス一行を待った姿が印象的です。一方、座ったまま弟子として呼ばれたのは、このレビだけです。徴税人は、植民地支配の中でローマの手先となって働く忌み嫌われた仕事でした。徴税人の証言は採用されず、社会的にも不利な立場でありました。町がイエス・ブームに沸く中で、立つ気力もなく、顔を上げることもできず、粛々と徴税を繰り返すレビがいます。きっと彼には関係のない世界と見えたのだと思います。すべての事柄が彼の頭の上を通りすぎて起きているように感じたのかも知れません。周り喧噪の大きさに反比例して孤独が増します。きっと誰においてもあり得ることでしょう。立ち上がれない時があります。見上げることができない日があります。しかし、主イエスが声をかけました。「わたしに従いなさい」。彼は従う者になりました。不思議と聖書の中に、この後のレビの活躍の記述が一切見つかりません。ここだけです。ただただ座ったまま声を掛けられた弟子として、彼の存在は際立っています。▲かつて、聖書の矛盾、現実とのギャップ、理不尽の出来事に「なぜ、なに、どうして」と疑問をぬぐうことができませんでした。しかし、いつの間にかそんな問いが小さくなり、次の関心へ移るようになりました。「神様は、この小さな者を覚えておられるのだろうか」。レビへの招きは、この問いへの大きな答えとなっています。



2022年1月23日

「ここにわたしの家族がいる」

犬塚 契牧師

大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。   <マルコによる福音書 3章31‐35節>

主イエスキリストの働きが注目を集めるようになるとその一挙手一投足を見ようと大勢の人が取り囲み、様々な立場の人が近づくようになりました。古代においては、その家族が社会的に認められている地位にふさわしい行動がしなければなりませんでした。もしそれを超えるようなことがあれば、逸脱者として見做されたようです。現代の日本の「家族」のイメージとは違うようです。個人主義的な自己実現というものにほとんど重きが置かれず、大家族の中でのそれぞれの役割にこそ存在意義があった「家族」の中で、主イエスの行動は一族の「逸脱者」に映ったようです。3章21節には「あの男は気が変になっている」と聞いた身内の人たちが取り押さえにきた様子が書かれていました。そして31節以降は、いよいよ母と兄弟姉妹がやってきました。触れてはいけない人たちに触れ、関わってはいけない人たちに関わり、癒してはいけない時に癒し、追い出せないはずの悪霊を追い出していました。専門家たちも、そんなことはあり得ないと語ります。この家族、この一族にしてみれば、邪径、越権、逸脱でした。家族が「人をやってイエスを呼ばせた」とは、「こんな人たちと一緒にいる家族じゃないのよ」という響きがあったかも知れません。主イエスは、そう言われながらも座っている人たちを見回して、あたかもその人たちに向かって言われるのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」▲もともとに家族に戻れないものたちもいたことでしょう。属するところを持たぬ人たちもいたことだと思います。いや、恐らく人は皆根無し草なのだと思います。盤石と思える土台は、きっと揺れに弱い砂上です。主イエスは座り込んで立ち上がれない人々に、家族であると宣言されたのでした。その場にあった緊張と緩和を思うと慰めを頂きます。神の家族に、その資格が問われていません。神の御心を行うとは、その場にいた人たちをモデルにすれば、イエスと共にいて、その言葉に耳を傾けることのようです。



2022年1月30日

「五つのパンと二匹の魚」

犬塚 契牧師

イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。  <マルコによる福音書6章30-44節>

 十字架を復活以外で4福音書すべてに登場するのは、この「五千人の給食」の記事なので、随分と印象深い出来事だったようです。2000年前、家族6人として大麦の粉を引くのに夜の3時間が必要でした。スーパー・コンビニでおいしいパンを選ぶだけの時代と違って、食べるための苦労は比べようもないでしょう。またこの時代には「シート広げて楽しいピクニック」は無かったようですから、外で分け合って食べたこの日は、集まった人たちには想像もしなかった非日常でした。▲この記事の前にはバプテスマのヨハネ斬首の記事があります。パーティーの余興で、あっけなく最後の預言者ヨハネが殺されていきます。権力の横暴と暴力の勝利、やるせなき理不尽と変わらぬ世界…そんな寒々として空気を覚えての「給食」の記事でした。気分一新、心機一転、嫌な事はさっさと忘れて、「みんなで満腹!キャンペーンという事ではないのは何となくわかります。しかし…▲弟子たちは集まった群衆を見て途方に暮れています。「人々を解散させて下さい。とそうすれば自分で周りの里や村へ何か食べるものを買いに行くでしょう」ここで、それぞれの家に帰るように弟子たちが進言しないのは、群衆の多くが帰る事の出来る家が無いのを知ってのことでしょうか。しかし、それでも手は届きません。なにせ彼らの手にあるのは5つのパンと2匹の魚だけなのです。ほぼ絶望的な数であり、あきらめるに足る十分な証拠でした。それでも…▲「天を仰いで…」主イエスの為したこの祈りが燦然たる希望です。「五千人の給食」の記事をヨハネ斬首の記事の続きと読むならば「本当にこんな世界を生きるのか」「ここを生きよと言うのか」という一貫したテーマがあるように思います。正直に思う所を語れば、この世界を生きるのは無理なのです。出来ない相談なのです。生きるのは難しすぎるし、持っているものは余りにも少なすぎるのです。ただ…▲主イエスが祈られた世界が残っています。八方ふさがりの最中、主イエスが天を仰いで祝福を祈ってくださった世界があります。人里離れた青草の上に広がったそれは♪「その香いまや世界の隅々に及べり」(聖歌530)と信じて良いでしょうか。4福音書すべてが残したこの出来事は、人が生き得るのに必要なものを伝えているように思えます。願わくは主イエスの祈りのうちに平安をいただけますように。




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