巻頭言
2021年1月


2020年1月3日

「難民になったインマヌエル」

草島 豊協力牧師

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」 <マタイによる福音書2章13?23節>

イエス・キリストの誕生に続いて大虐殺が起こった。なぜ!?しかしこれが民衆の日常風景ではなかったか。時の権力者によって自分たちの命が脅かされるそんな現実。では私たちの現実は?今年は新型コロナの感染拡大で「人とのつながり」の大切さを改めて知らされた。しかし顕わになったのは良いことばかりではなかった。「排除」「心の壁」「格差」も。「きずな」と「排除」はセットで現れた。「一丸になって○○を守りましょう」というメッセージは守らない人、守れない人を攻撃・排除してもよいというメッセージになり「自粛ポリス」も登場した。ウイルスを広げないためにマスクという壁は必要。しかし人との接触を避ける努力は、いつの間にか心の中に壁をつくる。政府は仕事のリモート化を推奨した。しかしそのリモートを支えたのは、低賃金で働く宅配業の労働者。そして非正規雇用の人々が職を失う一方で株価は上昇し富を増す人々がいた。感染しても軽症、無症状の人と、感染したら即命の危険に繋がる人。感染すると仕事を失う人とそうではない人。そんな命の格差。そしていま「共にある」ことが何よりも妨げられている。  この闇の中にイエス・キリストはお生まれになった。イエスが難民になったという事は、イエスは傍観者ではなく、喜びと悲しみに満ちた世の人々のただ中に来られたということだ。政治家は簡単に「夜の街」が問題だと責める。しかしそこに人は生きている。他者を思いはかる想像力が必要だ。イエスは町々村々をめぐり、そこで一人ひとりと出会って行かれた。一人と出会い、一人と向き合い、一人を大切にした。だから私たちもあきらめないでつながりを結んでいきたい。



2020年1月10日

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

犬塚 契牧師

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。…イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。        <マタイによる福音書 3章13-17節>

旧約聖書に約束された救い主メシア到来の期待が高まっていた時代、それを切に待つ人々の間に悔い改めの機運もまた高まっていました。そんな中で最後の預言者であるバプテスマのヨハネが一般の社会秩序から外れた荒野から発信を続けていました。聖書、服装から食べ物の好みまで書かれているのはヨハネだけです。「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」人々はヨハネが約束のメシアではないかと思い始めますが、彼ははっきりと語ります。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」履物を脱がせる行為は、同胞の奴隷にもさせなかったことでしたから、ヨハネが抱いたメシアへの畏れの大きさがわかります。▲そして、いよいよ「そのとき」が来ました。歴史が動きます。本人、真打、メシア、キリスト、主イエス登場です。しかし、「洗礼を受けるため」だというのです。罪を告白し、水の中に沈み、悔い改めの洗礼を受ける?履物を脱がせる値打ちもないと公言していたヨハネは動揺したようです。待たれたメシアの登場にしては、あまりに登場が底から、下からではないかと。2世紀頃の外典ヘブライ人の福音書には、主イエスが家族の求めに応じて洗礼を受けたことになっています。そして、その中では不満げです。「私はバプテスマを受けるような罪を犯したであろうか」初期の教会も受け止め方を迷ったのでしょう。▲短い個所に「そのとき」が3回出てきます。それぞれが三位一体の神の「そのとき」に呼応しているかのようです。主イエスの「そのとき」、鳩に表わされる聖霊の「そのとき」、父なる神の「そのとき」があり、それらが重なり合って、聞かれたことのないような美しいよびかけとなりました。「これはわたしの愛する子、わたしのこころに適うもの」。ヒーローが変身して登場するような、水戸黄門が印籠を出して権威を示すような、そんな登場ではなく、一度深く沈むところからのはじまり。それは聖霊の不服でなく祝福、父の怒りでなく喜びになりました。御子イエスに言われる言葉は、わたしたちにも語られている言葉です。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤ3:26)▲マタイはこの出来事の目撃証言を示していません。証言がすべての証拠の時代なのに。あたかもこの出来事の読み手こそが確かめ得ることと言わんばかりです。私にはこれを聞く耳があるだろうか、響く心があるだろうか…。正直に書けば、容易ならざる頑なさを覚えます。素直に開けぬものをもっています。今年、一年かかるでしょうか。そのくらいかけはかけて、新しい時、まるで幼子のように聞いていきたいのです。



2020年1月17日

「神の言葉で生きる」

犬塚 契牧師

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」             <マタイによる福音書4章1-11節>

            「神の言葉で生きる」      犬塚 契 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」            マタイによる福音書4章1-11節 主イエスしか知らないこの荒野での誘惑の場面をどうして福音書記者が書けたのか想像しています。答えは一つ、きっと主イエスが伝えたのでしょう。おそらく食事中にでも…。何度も。片方の肘をつき、体を支え、横になって食べるような当時の食事の風景を思い浮かべて、もしそこに自分がいたら、この話をどう聞いたかを考えています。▲「石をパンにする」なんてことは、そんな力など最初もってない人間には誘惑にはなり得ません。もともと自制が必要な事柄ではないのです。しかし、主イエスには誘惑になり得たというのでしょうか?しかし、最初の奇跡はガリラヤのカナで、水を最上のワインに変えたことでことではなかったでしょうか。またガリラヤ湖畔で飢えた人たちと5000人以上と給食をしたことだってありました。今回はなぜ悪魔の誘惑を懸命に退けたのでしょうか。▲主イエスは、洗礼者ヨハネから、罪の悔い改めのバプテスマを受けました。いよいよ「あの方」が来られたのです。それまでヨハネの弟子であった人たちは、その洗礼後から一人残らず主イエスに従った…という記事があっても自然です。ヨハネは履物を脱がせる資格もないとかねてから伝えていたのですから。しかし、洗礼後、振り向いても誰も主イエスの後に続かない。一人荒れ野に向かいます。訴える者(悪魔)は、迫りまるのに殺し文句を用意していました。「神の子なら」という言葉です。「バプテスマ?荒れ野一人旅?40日の断食?はぁ、いらないね。神の自制などいらないんだよ。神の子なら、神らしく、石をパンにも変えとけばいいのだ、そうすれば誰だって寄ってくるし、従ってくるよ、やってみな。」▲覚え始めたパチンコが面白くて、やめられず惨めな時期がありました。手を止めてお祈りしたことは何度もあります。石をパンに変えてほしいのではありません。球を増やしてほしいのです。聞かれはしませんでした。振り返って思います。もし、願った通りに聞かれていたら、神を賛美し、畏れ、愛するものになっただろうか。一度二度は感謝するでしょう。驚きもすると思います。神が味方で強くなった気持ちも味わうかもしれません。しかし、その後に襲うであろう圧倒的な寂しさも少し想像できるようになりました。それはもうよい関係ではなく、利用と餌付けです。荒野で主イエスが本当に戦った理由、自制した理由は、主イエスが望んだ関係の深さにあるように思います。▲夕食時、主イエスがまた荒野で拒絶した誘惑のはなしを始めた時、弟子たちはどんな想いで聞いたことでしょう。主イエスが愛したチャンネルを喜んだでしょうか。それとも石がパンになり、メシアが空を飛び、宝石の椅子に座るのをやっぱり望んだでしょうか。キリスト教史は、そんな誘惑との戦いの歴史でもありました。願わくば、主イエスのチャンネルを愛するものでありたいと思います。そこに格別の御想いを聞きたいと思います。



2020年1月24日

「律法の完成」

犬塚 契牧師

だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」  <マタイによる福音書5章17-20節>

十戒、モーセ5書、旧約聖書から派生した口伝律法は、人々の生活の細部にまで広がり、窮屈なものにしていました。安息日を覚える恵みが働いてはいけない禁止事項となり、それは働くとは何かの議論が始まりました。荷物を運ぶことは働くことか、ならば荷物とは何か。干したイチジク、一口のはちみつ、一枚の紙、2文字分のインク…律法学者たちはそんな議論を続けていたようです。悪ふざけをしていたのではなく、おそらくそれぞれに真剣であったことでしょう。「やつらとは違う」と線引きをして安心をする、規定を決めてようやく心落ち着く、優越をつけて自分を知る…。しかし、主イエスはそれらのカタチだけの律法を大切に思わなかったようです。弟子たちは安息日に麦を摘み、儀式的な手洗いをせず、主イエス自身も病人に手を触れ、癒しをされました。ほどなくして、うわさが立ち、「律法を廃止している」と言われました。対して「廃止するためでなく、完成するため」と返されました。「完成」とは、「正しい解釈を主張すること」だそうです。口伝律法の霧をかき分け、さらに律法の後ろにある神の御想いを理解して生きることを望まれました。そして、そんな御想いは、律法の文字の一つ一つに表れているではないかと。だから「これらの最も小さな掟」も大切なのだと。律法学者たちのつけていた律法のランク付けに対して物言いをつけたのです。群衆の一人としてその場にいれば、面食らった律法学者の顔をみて小気味よい思いを抱いたと思います。生活を複雑にされたことへの葛藤がありました。しかし、主イエスはさらに言われます。上記箇所「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ…」。律法学者たちの義をさらに引き上げて迫るような言葉です。もう絶望的な響きに聞こえます。あぁ、やっぱりだめです。生きていけそうにありません。▲「聖書で語られる“正義”は、神の思いと合致した行動を指しており、ほとんどいつも社会的な関係性を視野に入れ、傷ついた部分のない状態=平和=を実現させる働きを意味します。…したがって、“解放”と訳すほうが原意に近く…」(本田哲郎)▲そう読んでもなお捉えたとはとても思えません。私はただ、“神の思いと合致した行動”や与えられる“解放”に飢え渇くものです。それでも、そんな疼きやうめきを知らされていることに、希望をいだくこと、いただくことは許されるでしょうか。…かつて、敬愛する牧師がこう語っておられました。「自分には愛がないことにこそ愛する希望を持てるようになりました。“神は愛”だからです」。できれば同質のものであればと切に願うばかりです。



2020年1月31日

「主イエスの望み」

犬塚 契牧師

イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。 <マタイによる福音書8章1-4節>

 5章から7章まで、主イエスキリストの山上での説教が記されていました。その最後はこう締めくくられています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」かつての著名な学者たちの権威を借用しながら話をした律法学者たちのようではなく、「わたしは言っておく」と主イエスは語られました。それは新しい語りかたであり、非常な驚きをもって受け止められました。それに続く8章は、「山を下り」、その権威の証拠とでもいうべき10の癒しと奇跡が9章まで続きます。そして、そのはじめ…。マタイ福音書の最初の奇跡は「重い皮膚病」(ツァラアト)を患った人の清めでした。▲かつては誤って「らい病」と訳されていたこの病は、現代には当てはまる症状が見いだせないため新改訳聖書はそのままツァラアトと訳しています。皮膚に白い湿疹が現れ、肉がただれ、やがて全身を覆う病は、完全に孤独な病でした(レビ記13-14章)。「わたしは汚れている。わたしは汚れている」と叫びながら町を歩き、人々の交わりに入れず、隔離された生活を強いられます。ツァラアト患者に触れた者も汚れるとされ、次第に人に触れられるという感覚も忘れていきます。人からも神からも見捨てられた存在でした。省みて、悩みは小事大事多々あれど、まだ歩くことに支障がなく、空は青く見え、大概は笑顔を作って、心をこめれば通じるものだと思い込みやすい私にしたら、この孤独は想像しがたい苦しみです。そして、残念なことにツァラアトから癒される方法が聖書には書かれていません。それだけでなく、律法が与えられてからユダヤ人の中で癒された人が一人も登場しないのです。不治の病でした。しかし、癒された後の祭司の儀式の事は知られていました。だから、そこには大きな矛盾がありました。例えれば、鍵はあるのに鍵穴が見当たりません。商品はあるのにレジがありません。飛行機はあるのに滑走路がありません。癒された後の儀式は、まるで絵にかいた餅でした。だから、ツァラアトが癒されるとしたら、それは、救い主が来られた時にだけ起きる奇跡だと理解されていました。マタイの最初の奇跡は、ただの驚きの癒しの報告ではありませんでした。マタイの言いたいことは、救い主が来られたのだという宣言でした。▲ツァラアト患者が最後の望みのごとく主イエスに向かった歩みの過酷さを想像しています。声を絞ります。「主よ、お心ひとつで私をきよくすることがおできになります」(新改訳2017)神の本音を問う問いでした。「勿論、その気だ!サッパど治れ!」(ガリラヤのイエシュー)▲「汚れている。汚れている」と叫んで歩く必要のない現状を生きています。せめてスーパー、コンビニでマスクをして歩くくらいです。「まともなふり」をして生き得ています。しかし、問いはツァラアト患者と同じです。ならば、頂ける答えも同じと理解してよいでしょうか。10続く癒しの奇跡の間に、マタイは自分の召命の記事を入れ込みました。彼もまた「頼りなく、望みなく、心細い人」の一人であり、神の本音を聞いて癒された者だったのでしょう。願わくば、私もその声を聴き、その体の傾きで生きたいのです。




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