巻頭言
2020年1月


2020年1月5日

「言は肉となって」

犬塚 契牧師

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 <ヨハネによる福音書1章1-18節>

紀元90年代、ヤムニア会議において、ユダヤ教の聖典が次第に定められていく過程と共にイエスキリストを神とするキリスト者たちとの違いが決定的になっていったようです。紀元70年以降の神殿なき後、残ったシナゴーグ(礼拝堂)の重要度は増したでしょうが、キリスト教徒たちはその使用を許されず、共同体からもローマ帝国からも迫害を余儀なくされました。厳しい現実的課題から、棄教していく人々もいたことでしょう。ヨハネの教会もまたふるわれています。ヨハネはすでにあったマルコ、マタイ、ルカに加えて福音書を記しました。書き出しは上記の通りです。まるで創世記を再び書き直しているようです。言とは、イエスキリストのことです。神の本音です。これまで、律法、族長、士師、王、預言者、そして、時間、歴史を通して語りかけた神の本音はイエスキリストに表れているのだというのです。そして、そのイエスキリストは西暦元年に、そのいのちが誕生したのでなく、天地創造の初めからそこにおられたのだとキリストの「先在」を語ります。ヨハネが置かれ、窮した状況を考えれば、個々人の生涯を超えて、歴史を貫く大きなスケールの世界観に行きついたことに驚くのです。▲12月、マタイとルカのクリスマスストーリーを読んできました。どうかと思うような出来事と場所と人に、神はご自身を啓示されました。思いがけないところにおられるのです。そして、思うのです。14節の弟子であったヨハネが見た「その栄光」とは人の思う「栄光」と違うものではないかと。人の「栄光」は、神の「屈辱」ではないかと思うのです。だから、後々主イエスに従うものは、主がそうされたように、蔑みの中で安心して「愛する覚悟」だけ決めたのです。年の終わりに、その覚悟を。年の初めにその覚悟を。1年かけ、5年かけ、10年かけ、生涯かけて、愛することに、体を傾けていきたいと願うのです。



2020年1月12日

「この世を神は愛された」

犬塚 契牧師

そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。         <ヨハネによる福音書3章1-21節>

ヨハネ3章16節。世界中の教会学校の子どもたちが暗記をし、聖書の要約と呼ばれ、この言葉さえ残れば、人々は救われ続けるといわれる聖書箇所です。だけど、そんな容易に合点がいく箇所でもないと思います。3章は、エリート議員ニコデモが、夜にイエスキリストを訪ねてくるところから始まりますが、彼へ主イエスの語りかけは、いつの間にか読者に向かってヨハネが話しているようにも読めて不思議なところです。ニコデモは、新進気鋭の「ラビ」「教師」である主イエスのもとに「しるし」の秘訣を求めてきました。続く二人の会話は、かみ合っていません。主イエスは、神の国、神の支配、神の御取り仕切りは、新たに生まれる者にしか見えないし、そこを生きられないのだと言います。「先生、ご冗談を。どうやってもう一度母のお腹に戻れましょうか」そんなニコデモの反応は、皮肉だったのでしょうか、期待外れの落胆だったのでしょうか。主イエスはお構いなしに、モーセの掲げた青銅の蛇を見え上げるだけで病が治った出エジプト時代を振り返っています。民数記21章です。のたうち回るような惨劇の中で、目を上げて青銅の蛇を見上げたものは命を得ました。究極にシンプルな形です。そんな出来事を伝えた後に、世界一有名な16節が来るのです。▲ニコデモは多くを持ちすぎていたのではないでしょうか。多くの方法を探していたのではないでしょうか。しかし、この夜に示されたのは、かの日に青銅の蛇のごとくに上げられるイエスキリストの姿です。この姿に「世」を愛する神の心が余すところなく表れていると知りたいのです。どうかこの出来事が私たちの内に福音として撒かれ、根付きますように。



2020年1月19日

「礼拝する場所はどこですか」

犬塚 契牧師

「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」 <ヨハネによる福音書4章:1?29節>

「しかし、サマリヤを通らねばならなかった」という始まりが印象的な4章です。「ねばならぬ」の地理的理由などありませんでした。通常は、ヨルダン川を渡るルートを使ったのです。しかし、主イエスには通るべき理由がありました。4章の二人のかみ合わない対話は、次第に深みへと導かれていくのです。物質的な水という言葉を用いて、霊的な水を表現しようとする主イエスとそれをなかなか捉えきれないサマリヤの女性の姿があります。のどの渇きを癒す水は、コップ一杯で十分ですが、またすぐに渇きます。主イエスの水は、決して渇かないどころか、むしろ泉そのものを与えようといわれます。教会で過ごしながら、その意味を考えています。カラカラに渇いたように見える出来事や、八方がふさがったような所から、再び泉が湧くような場面を見させもらえました。世の中が、失敗、挫折、頓挫、降下、つまずき、枯渇と評価するような出来事から、感謝や悔い改めややさしさ、愛や希望や恵みが湧いてくるのを見ました。渇いたように見えて、渇き切らず、どこかに泉がコンコンと湧くのです。信仰生活の感謝な時です。▲主イエスはさらにサマリヤの女性の深い求めに迫り、礼拝の場所を伝えます。人との関係で破綻を抱いていた女性は、神との関係においてもまたその投影をしていたでしょう。「通らねばならなかった」理由とは、彼女が礼拝の場を見失っていたからでした。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」霊と真理とは、聖霊とイエスキリストのことでしょう。礼拝者をふさわしく整えるに、他には何もいらないのです。神の用意された小羊のみです。



2020年1月26日

「わたしだ」

飯塚 道夫師

イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 <ヨハネによる福音書6章16-21節>

他の福音書にあるような、ペトロが湖の上を歩く場面も、幽霊と思っておびえた場面も主イエスがそばを通り過ぎようとした場面も、ヨハネは書き残さないで、ただ「わたしだ。恐れることはない」という一言に収斂させました。他の福音書が書かれてから30年過ぎています。付け足す時間はありました。しかし、その一言が決定的だったのです。それは湖上のヨハネにとっても、年を経て老人となった今のヨハネにとっても、当時の迫害下の教会にとっても。「わたしだ」・「I AM」・「エゴエイミー」といわれるその言葉に多くの説教者が、旧約聖書の出エジプト記3章との重なりを語っています。王子として育ちながら、正義感からの行為は同胞からも受け入れられず、ミディアンの荒野で人生を終えるはずだったモーセが神から召し出される場面です。燃え尽きない雑木の不思議を眺めて、モーセはすでに燃え尽きた自分を思っていました。そこに神の語りかけがあるのです。「モーセよ、モーセよ」。エジプトで苦しめられている民を救い出すという計画の前にモーセは恐れ、神の名を尋ねます。そして、答えを得ます。『神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ…」(出エジプト記3章)』。「有って有る者」(口語)「I AM THAT I AM」(KJV)▲「ないものはない。あるものはあるとしか言えない。」かつて、そんなニュアンスで読んでいました。私たちの通常使う「名」とは違いますから。しかし、その神の名とは、どこにでもあろうとする、どうにでもなろうとする、神の姿そのものだと聞いて、深く感謝を覚えています。日々は、その感謝の刷新です。そして、イエスキリストこそは、その神の姿の決定的なかたちです。神が共にあろうとするがゆえに、どのようなものにもなろうとは、人の想像を遥かに超えています。あらゆる神話が神を人のレベルに引き下げるのと対照に、歴史を動かし、聖書に示された神の姿に、今日もまた生き心地をいただく者でありたいのです。




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