巻頭言
2019年1月


2019年1月6日

「クリスマス前後《

犬塚 契牧師

見よ、その日が来る 炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 <マラキ書3章19節>

神と民の会話のようにマラキ書は続いていきます。冒頭の「見よ、その日が来る《とは、先の「我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え 神を試みても罰を免れているからだ。《(15節)に対する神様の応答の言葉でしょう。バビロン捕囚からの解放と第二神殿建築後も一向に国が再び立ち上がる気配はなく、生活は苦しいままでした。当初の幻をもっていた民は力を失い、惰性のように続く日々が続きます。礼拝はおざなりとなり、祭司は勤めを忘れました。「わたしはあなたたちを愛してきた《と語る神に、民は、「どのように愛を示してくださったのか《と答えます(マラキ1章)。そんな彼らの心の荒廃には、高慢な者の方が栄えているように見え、むしろ神など当てにしない生き方が楽なのだと感じ始めていました。なるほど、マラキ書が、疑いに捕らわれた信仰者の代弁の書に読めてきます。▲しかし、「見よ、その日…《は、裁きの日が必ずや来ることを示しています。民たちは、出エジプトやさらに昔のアブラハムに与えられた導きを思い起こすことを勧められています。神はどんな方であったのか沈思黙考が必要でしょう。しかし、真にそれがあったとして、裁かれるものとして映るのは誰なのでしょうか。自分以外の誰かだけではないでしょう。その火は私にも及ばないとおかしいのです。私はそう思っています。それでも幸いがあります。預言者エリヤの派遣です。新約時代にこのエリヤは、バプテスマのヨハネと理解されました。そして、ヨハネはしたことは徹底的に主イエスキリストを指し示したことでした。



2019年1月13日

「生ける石《

犬塚 修牧師

「あなた方自身も生ける石として用いられ霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって…《(5節)         <ペトロの手紙Ⅰ 2:1-10>

「生ける石《は主イエス様ご自身のことですが、何と私たちも同じような「生ける石《と記されています。驚くべき一言です。高貴な神の御子と同じような存在とされているのです!たとえ、自分がいかに弱く、劣った面を持っているがれきのような存在と思っていても、神の目にはこの上ない貴い存在とされているのです。☆私たちの使命…「霊的な家を造り上げること《とあります。これはキリストの教会を信仰によって建て上げていくことです。この目的遂行の為に、一人一人が「祭司《として召されています。祭司の務めは「執り成し《であります。即ち、神と人との間にあって、祈り、献げ、仕え、助け合う働きです。イエス様は飼い葉桶で産声を上げられました。それは最も弱い存在として、苦悩や絶望や無力の極みとしての誕生でした。この飼い葉桶は、教会の姿ではないでしょうか。私たちが頼りない赤子に似ています。赤子は弱さにまみれており、泣くことしかできません。しかし、大切なことは、この赤子を見守り、支え、慈しみ愛する人たちが取り囲んでいるという事実です。一人の人が己の弱さを露呈し、辱しめを受けそうになった時、決して裁かず、赦す人々は祭司なのです。冷たい視線をなげかけることなく、ひたすら愛し、赦すのです。そして、今は強い人も、ある時は赤子のようになる時が来ても大丈夫です。その人は愛する人々に取り囲まれていることでしょう。一月の月間テーマは「宣教《です。宣教とは、教会の慰めと愛の交わりを実践していくことではないでしょうか。



2019年1月20日

「もう一つの十字架理解《

草島 豊協力牧師

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。《知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく上安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。 <コリントの信徒への手紙Ⅰ 1:18〜2:5 >

1:23と2:2の「十字架につけられた《の原文は現在完了形で、過去の出来事が現在も継続している様子を表す。しかし歴史的には十字架につけられ、息を引き取り、下ろされ、すでに天にひきあげられている。パウロは「十字架につけられたままのキリスト《という表現で「罪のあがない《とは別の何かを伝えようとしている。神の召しは「知恵《「力《「家柄《とは関係ない。むしろこの世の愚かなもの、弱いもの、生まれのよくないもの、軽んじられているものを選び出された。私たちはどこか「力あること《が良いと考え、力を求めてはいないか。そしていつの間にか信仰においても自分の信じる「力《を求めてはいないか。しかし神の前で誇れるものは何もない。2章3節も原文では文頭に「わたしもまた《という単語がある。「わたしもまた《弱さ、恐れ、多くのおののきの中にあったとパウロは語る。ではここで誰と比べているのか。それは2節の「十字架につけられたままのキリスト《。その姿は、弱さ、恐れ、おののきの中にあり、強さとは真逆の愚かさ、のろいの姿。そのキリスト以外に何も知るまい、とパウロは語る。無残な十字架上のイエスの姿を心に留めよ、と。徹底的な無力さ、愚かさの姿が十字架につけられたままのキリストの姿。しかし、このキリストをこそ神は天にひきあげられた。このキリストを、神はよしとされた。神は「力《を求めてしまう私たちに「求めるな《と伝えようとしているのではないか。私たちは力ある者になろうとし、力ある業に心が惹かれる。しかし神はこの世の強い人、強い業、強いことを恥じ入らせるために、あえて弱い人、弱い業、弱いこと、この世のなきがごときものを選び出された。歴史的には、イエスは十字架上で殺されただけ。天の軍隊が現れてローマ軍を蹴散らしたのではなかった。しかしその無力の姿が人を変え、世界を変えた。



2019年1月27日

「安心して行きなさい!《

浜松ともみ師

ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの朊の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか《と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです《と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ《と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。《 <ルカによる福音書8章43-48節>

イエス様は旅をしながら、様々な奇跡や癒しを行い、ご自分が救い主である事を公にされました。その噂はあっという間に広まり、イエス様が行く所、群衆が集まり騒ぎになりました。押し寄せた群衆の中に、43節12年間、ずっと出血が止まらず、全財産使い果たしたが、誰からも治してもらえない女性がいました。精神的、肉体的、経済的な苦しみの上、社会的、宗教的偏見が彼女を苦しめました。当時、出血を伴う病は、社会的、宗教的に汚れた者とみなされていましたから。彼女は、イエス様に会いたい、癒されたいと、群衆の中に紛れ込みました。後ろから触れるなら、大丈夫、気づかれない。そして後ろからイエス様の朊に触れたのです。マルコ5:27、28「この方の朊にでも触れれば癒して頂けると思ったから《直訳では「言っていた《しかもここで彼女が信じ願った「癒し《という言葉は、魂の救いを意味する言葉。つまり、病んでいたのは体でしたが、そこから生じる魂の苦悩からの救いを願ったのでしょう。彼女の身体的な病は、彼女の人生、人間としての健やかな営みをむしばみ、苦しめていました。この方の朊に触れる事ができたら、私は救われると信じて。するとルカ8:44「直ちに出血が止まった《彼女は、出血を伴う病、汚れた者とみなされています。公の場にいてはならない存在です。とにかく、この場から早く逃げようとした矢先、イエス様が振り返り言われました。45「私に触れたのは誰か《人々はみな自分ではないと首を振りました。イエス様は46「誰かがわたしに触れた《彼女は隠しきれないと知り、震えながら進み出て、ひれ伏して一部始終を告白。47「イエス様に触れた理由と癒された次第《を話しました。それは言い換えると「彼女の証、信仰です《48「あなたの信仰があなたを救った《この「救う《という言葉は、魂の救いを意味。この方の朊に触れさえすれば救われると信じた、彼女の信仰にイエス様は応えられ、その通りになったと公の場で宣言されました。もう汚れた者ではありません、隔離される必要も無い、交わりを回復し、人間性を取り戻して下さったのです。イエス様は、この時から、彼女が安心して暮らせる道を備えて下さいました。私達にも誰にもわかってもらえない、誰にもどうすることのできない、誰にも治せない痛み悲しみ、心の傷があるかもしれません。傷ついたこの女性がイエス様の着物に触れたように、私達も悲しみ、痛み、暗闇を抱えたそのままの姿でイエス様に近づきたいです。イエス様は、イエス様を必要とする多くの人の中から、この女性に目を留めて下さったように、主の助けを叫ぶ、この私に目を留めて下さり「安心して行きなさい。《と祝福して下さいます。




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