巻頭言
2018年1月


2018年1月7日

「ありがと」

犬塚 契牧師

さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。 <ルカによる福音書2章22-38節>

人が遜るまでに必要とされる長い年月と経験する蔑みを考えるとシメオンはやっぱり老人であったと思います。その生涯で、歴史に知らされるユダヤ民族の興亡を何度、思い起こしたでしょうか、さらに身近にローマ帝国に蜂起しては散っていった同胞を見てきたでしょうか。多くの涙と血を前にして、すでに彼は、英雄や武力や高く掲げられた旗に期待することできませんでした。そして、神殿で出会った一人の産まれて間もない赤子に近づいていくのです。その理由をルカは「聖霊が」「聖霊から」「霊に導かれ」と記すのみです。そう書く以外に言葉が見つからなかったのでしょう。シメオンの「主よ、今こそあなたは…」という万感極まる言葉は、ヌンク・ディミティスと呼ばれ、そのまま最古の讃美歌の一つとなりました。Uペトロ3:8「一日は千年のようで千年は一日のようです」…シメオンのこの一日は千年にまさる日でした。約束のメシアと出会ったからです。“メシア”は、ヘブライ語で「油注がれた者」の意味でした。(ギリシャ語ではキリストですが、やがてイエスを示す固有名詞となっていきます)旧約聖書の時代、その即位の際に油注がれたのは、王であり、祭司であり、預言者でした。シメオンはそれが一人の子に統合されるのを垣間見て喜んだのです。▲人生の最後の時、王が定まり、罪の取り成し手を知り、なお共なる預言・希望を、メシアであるイエス、つまりイエスキリストからいただいたのです。▲「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」ヘブライ7章



2018年1月14日

「福音の源」

犬塚 契牧師

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 <マルコによる福音書1章1-15節>

「はじめ」「福音」「イエスキリスト」「神の子」。聖書の言語では、その順番で言葉が並べられています。何度も書き直しができるパソコンの画面を眺めての執筆ではありませんでした。途中で断筆を迫られる可能性もあったでしょう。何を最初の一言とするかには、熟考と時間が必要でした。マルコはこう記しました「はじめ」。はじめも終わりもない神が、ある特定に、はじまりを持たれます。それはどこまでも人のためであり、神の愛の事始めです。旧約聖書の最初の一節が重なります。「初めに、神は天地を創造された」。▲「福音」(ユアンゲリオン)とは、クリスチャンの専売特許ではなく、ローマ皇帝の世継ぎ誕生と即位の時の言葉でした。誕生と即位…つまり、「ローマの平和」の継続は、支配下にある者たちの「善き知らせ」なのだと…。しかし、マルコはそんな強制をひっくり返し、「善き知らせ」とは、イエスがキリスト(救い主)であること、神ご自身なのだと最初に宣言をしました。いつ取られるかわからない筆は、1章1節でマルコの希望を語っています。そして、続くマルコの福音書1:1-15節は、この福音書の要約とも言えます。最後の預言者ヨハネの誕生が8節まで、ヨルダン川での洗礼、荒野での誘惑、宣教の第一声と続きます。預言者ヨハネの誕生は、マラキ書から数えて400年の渇きに答える神の応答でした。長い民の歴史の祈りを自分の祈りや歩みと絡めて考えることのできるイスラエルの特別な恵みを思います。今の日本にこんな祈りがあるでしょうか。(あと少しの電気を得るために、10万年分のゴミを残そうとしているのが私たちの時代です)ヨハネは人気がありましたが、次の方をしっかりと指さしました。靴紐を解く値打ちもないというヨハネから、イエスキリストはバプテスマを受けられたのです。ここに上へ上へという階段を昇りつめる歩みのスタートでなく、下へ下へと向かう方向性が示されました。そこに鳩のような優しさをまとった声が響きます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。主イエスに語られる言葉は、主イエスにつながる者、一人ひとりに語られる言葉です。アイデンティティーです。「我は何者か」という地球大の哀しさに響く宇宙大の宣言です。やがて、ヨハネが施政者に逮捕されます。不穏な空気が流れました。主イエスは宣教を開始されます。「時は満ち、神の国は近づいた」。もう、神の国は見えるではないですか。神の国は来ました。神のおとりしきりが、あります。新しい年にもいのちが与えられました。静かなる祈りをもって神の国を見る目を与えられたいと願います。



2018年1月21日

「静かにしていれば」

犬塚 契牧師

主はモーセに仰せになった。「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」 <出エジプト記14章1-14節>

聖書を読んだことがない人も、出エジプト記のこの海が割れたシーンは知っています。いくつかの映画にもなり、有名な場面です。エジプト脱出に成功したイスラエルの人々に、心変わりしたエジプトの王ファラオの軍隊が追ってきます。馬に引かれた戦車の音に恐れをなした民は、大きな不安と震えるような恐れを感じました。絶対絶命と思われたのです。「荒野で死ぬより、エジプト人に仕える方がましです。」しかし、モーセはすごい人だと思います。99.9%の人々と違うことを考え、信じ、伝えました。上記聖書箇所。なかなか言えないことだと思います。「…あなたたちは静かにしていなさい。」▲押し黙るよりも雄弁かつ多弁であること、待つことよりも多動であること、効率よく多産的であること…どちらかと言えば、控えめに考えても、それらこそが有用でに思え、もてはやしてきたように思います。飽くなき利潤追求と極端な物質主義、人格を無視した効率性は、人から静けさを奪ってしまいました。なんだか、黙ることを知らない国の、そんな道を私も生きています。しかし、出エジプトのこの場面に求められたのは、「静かにしている」ことでした。無力感、途方、お手上げだからではないようです。▲振り返ってみると、歩みの中でクサビのように与えられた気付きや底を流れるような励ましは、静けさにあるときでした。2018年、新しい年の初めに思うのです。今年もちゃんと右往左往を繰り返してジグザグを生きるにしても、「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」との言葉に戻る者でありたい。わずかばかりの信仰を働かせ、すぐに怒らず、消沈せず、決めつけず、諦めずに、少し静かにして生きていきましょう。



2018年1月28日

「新しい創造」

犬塚 修牧師

このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。 <ガラテアの信徒への手紙6章11-18節>

私達の罪(神に対しての的外れのエゴイズムの生き方)は、自分の努力で贖う事はできない。イエス・キリストが「この私の罪のために、死んで下さった」という主の十字架の贖いを信じる以外に救いはないのである。しかし、残念な事に多くの人はそれを信じない。その神の愛を受け入れず、認めようとしない。人間的なプライドが邪魔するからである。そして、絶望の道に陥っていく。神は私達の罪の恐ろしさ、そのむごい実態を見過ごしにできず、愛のゆえに、イエスは十字架という激痛の道を選択された。▲今や、私達はこの世に対して、完全な勝利を与えられている。パウロは世は自分に対して、はりつけにされていると宣言する。それは、この世は、何一つ被害を与える事ができない事を意味している。イエスが完全に守られるからである。▲また、私達、世に対して、傷を与え続ける事もない。もし、私達が誰かに対して、罪を犯してしまったとしても、その事で、懊悩し、自分を責め続けてはならない。しかし、驚くべきことに、主の十字架の救いは私達の罪を帳消しにされたのである。だから、何の過度の責任感も、罪意識も、悔恨の念も抱く必要はない。主がすべての罪を粉砕し、燃えて灰にされたからである。▲私達がどうしてもしなければならない事は、このイエスの十字架を仰ぎ、あがないの事実を信じる事である。そこに、真の自分の姿がある。主と共に、十字架につけられている自分が。完全な罪の赦しを受けて、喜んでいる姿が。▲だが、それを信じ、受け入れる人は少ないのは、残念な現実である。「頭ではわかるのですが…、実感がない」と言って、主から離れていく人が多い。心の中に「そんなに簡単に罪が許されるはずがない」と思っていることもある。信仰の難しさがここある。「すばらしいですね」と口で言っても、実感に依存する信仰に立っているので、前に進まない。▲信仰は実感ではなく、決断なのである。大切な事は主の十字架がいかに絶大な神の恵みであるか、また、それを信じる事を神が求めておられる事を確信する事である。それが「新しい創造の生き方である。「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。あなた方はそれを悟らないのか。私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(イザヤ書43:19)今年、自分自身を「肉」(生まれつきの自分の自然な性格、考え方)の中にとどまる事無く、イエスの十字架の中に住んで生きたいものである。




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