巻頭言
2016年1月


2016年1月3日

「いのり」

草島 豊協力牧師

主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。  <詩篇139編1-24節>

 詩編139編は大きく三つの部分に分けられる。1?18節で「神への信頼」、19?22節で「嘆きと憎しみ」、そして23?24節は「祈り」。まずはじめに神への信頼がとくとくと語られ、そこには全てを知る神、私の傍らにいて下さる神、私の意志や感情をもととなる内蔵をつくられた神を詩人は賛美している。  次に打って変わって嘆きと憎しみが溢れている。ここで詩人は敵対者を滅ぼすようにとさえ願う。敵対者が誰なのかは分からないが、何者かによって詩人は困難な状況に追い詰められていることは良く伝わってくる。詩人は最初に「あなたは私を究め、わたしを知っておられる」と賛美しながら、ここで「わたしを究め、わたしの心を知って下さい」と願う。一見合理的でない詩人の言動に詩人の動揺がみえる。人は追い詰められると、心の中に憎しみ、怒りが沸いてくる。しかし、そのとき自分の中で、いったい何が起きているのか、実は、自分では自分の心が分からない。だから、私の心の中に起きていることを教えてくれと願うしかない。それが最後の祈りに繋がる。  詩人は「御覧下さい」と、神に対して私を見てくれ、と自分を差し出している。詩人の信仰は固いのか。むしろ、詩人は自分の負い目や愚かさも含めて、自分を差し出しているのではないか。どんな結果も受け入れます、という覚悟と同時に、全能の神に対する「しょうがない」というあきらめがある。または神がわたしを創ったのだから、という信頼の現れ。あるいは素直に、教えて下さい、という願い。そんな複雑な思いが混じったまま神にこの身を差し出しているのではないか。そしてこれらぜんぶひっくるめてこれも「いのり」の姿ではないか。信頼、戸惑い、負い目、迷い、覚悟…それらすべて、神はご存じだから。こんな私で仕方がないから。この仕方が無いわたしをつくられたのは、他ならない神ご自身なのだから。



2016年1月10日

「栄光の始まり」

犬塚契牧師

ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。…イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。    <ヨハネによる福音書4章>

 ヨハネの福音書に書かれている最初の奇跡がこの「カナの婚礼」です。おそらくはマリアの家族と近しい人の結婚式だったのでしょう。一生懸命に世話を焼く母マリアの姿が浮かびます。当時の結婚式は、歌と踊りが一週間も続くような楽しい宴で、娯楽など乏しい日常の中ではなおさら誰もが心待ちにし楽しんだそんな祝いのときでした。その中でワインが底をついてしまいました。新郎新婦にっては、酔いが一気に冷める恥ずかしい事態です。最中、台所の裏事情まで知るマリアは、息子イエスの不思議な力に期待したのだと思います。「ぶどう酒がなくなりました」。それに対してイエスキリストは答えました。「婦人よ…」とは、失礼な言葉ではありませんが、自分の母に対しては突き放した言い方に聞こえます。▲このシーンを読むと「ドミノ倒し」で、最初のドミノを押すような緊張を感じます。もし、ここで事が起こされるなら、この奇跡から十字架、復活に至るまでの止まることのない道が開かれていくでしょう。水がワインに変ったと知るやいなや人々の熱狂は燃え上がり、祭り上げ、必要は限りなく、それでも人はメシアの形が望んだそれではないと知ると豹変し十字架に送るでしょう。それは神の知恵ではありますが、その道は母と子という関係では悲劇としてしか理解され得ない道でもあります。全裸で肉裂かれ子が十字架にかかるのを「母」が見ていられるものではありません。「婦人よ」の語りかけに、救い主なるイエスキリストの心を思います。それでもカナで奇跡は起きました。奇跡とは、マジックでも魔術でもなく、しるしです。水をワインに変えたイエスキリストは、ご自分の血を赦しの証拠と変えました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」 ルカによる福音書22章20節



2016年1月17日

「生き、笑い、葬られ」

犬塚契牧師

その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。 <創世記23章>

 「さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13章)の約束を神かもらっていたアブラハムが唯一生涯で手に入れたのは、妻サラを葬るための土地でした。23章の不動産売買は、当時の商取引のそのままとも言われます。譲ってもらうべく下手に挨拶を繰り返すアブラハムとそのアブラハムを「神に選ばれた」「主人」と評して、差し上げますと返答するヘトの人々。それでもただの芝居じみた茶番ではないのでしょう。アブラハムへの尊敬とサラを失った悲しみへの共感と真実さがあると思います。それでもアブラハムが、土地の価格を聞くと400シェケルでした。相場を超えていたと言われます。純粋な真実があり、騙すでなくとも人の心と利害が重なって、複雑な事態が広がっています。よりによって「サラの死と埋葬」の場面でです。なんだか胸が詰まりますが、人の深くにあるとはそういうものなのでしょう。さだまさしの「償い」の歌詞が流れます。「…人間って哀しいね、だってみんなやさしい。それが傷つけあって、奪い合って…」。それでもアブラハムはしっかりとサラのために土地を得て、葬りました。▲まったく、引き裂かれる必要はないのだなぁ…そう読みました。サラの人生を悲劇の側面から書こうと思えば書けるかもしれません。夫に従って神を信じて、目の黒い内は、猫の額ほどの土地も与えられなかった悲劇の女性と言えなくもないでしょう。選ばれた一家が得た土地は、このマクペラの土地だけでした。この墓地取得のシーンも、そう読めなくもない。したたかな交渉とアブラハム悲願の取得と…。水と油のような、肉をもったこの世界と神との間の霊なる約束に引き裂かれてはならないのだと思います。 むしろ、それを結ぶことこそが信仰者の責任であり、喜びであると信じてよいのです。23章にアブラハムの祈りはありません。神の登場もありません。み使いの語りかけも慰めもありません。それでも、引き裂かれていないアブラハムの存在あります。確かに神が生かし、導いたアブラハムがいます。



2016年1月24日

「キリスト―栄光の希望」

犬塚修 協力牧師

「その計画とは、あなた方の内におられるキリストー栄光の希望です。」 <コロサイの信徒への手紙1:24-29節>

 神の宇宙的な無尽蔵の祝福は、世界に住むすべての人に与えられている。特に、教会に神の永遠の力は向けられている。たとえ教会がいかに小さな集まりであっても、キリストの体として召されているからである。教会に連なり、共に苦楽を味わって生きる事は、宇宙的、創造的な価値ある事である。貧しく遅々とした私達の歩みであっしても、神のみ前には貴い事であり、不朽である。▲パウロは教会の苦しみを喜ぶ人であった。教会の痛みや欠乏を補い、共に悲しみ、助ける事を自らの使命と考えたパウロは、暗い獄中にいた。その日々は単調であり、出会う人も僅かに過ぎず、不安定な状況の中にありながら、パウロの心は希望に満ち溢れていた。神の完全な愛の支配の中で生かされていたからである。また、自分は獄屋から「すべて人に」福音を発信していると信じていた。自分の人生に起こっている悲しい出来事も、実を言うと、全世界の同様な苦しみに悩む人々の助けと慰めのために起こっていると考えていた。人知を超えた神の栄光の計画に組み入れられていると信じ、「無」に等しい自分の存在であっても、神のみ業が実現していくためにあると洞察していた。パウロにとっては、キリストが人生のすべてであり、神、王、真の統治者であった。▲汚れた霊がある男の家から離れた。その結果、彼は心を入れ替え、きれいに家の大掃除をした。しかし、悪霊は見違えるようにきれいになったその家を見て、大いに喜び、再び戻ったので、以前よりもひどい状態になった、とある。これは人間の犯しやすい失敗を示している。私達はキリストの鮮やかな支配を疑い、自力信仰によって心をきれいに整えようとしやすいが、人間の力は悪魔の攻撃に対して余りにも弱いのだ。しかし、キリストが私達の心の家を守られるならば、安心できる。▲主を受け入れ、信じる事が人生における勝利の秘訣である。その決断の後に、栄光の希望が生まれる。主は私達の困難や試練の矢面に立って、戦い、完璧に守って下さる。私達はこの主の守り、愛と深い慰めに包まれて生きよう。私達が疲れ果て、寒さに震える夜があったとしても、部屋の布団が暖かいならば、どんなに嬉しい事であろうか。主キリストは、私達のすべてを暖め、平安に満たして下さるのである。



2016年1月31日

「いったいだれだ」

犬塚契 牧師

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 <マルコによる福音書4章35-41節>

 マルコによる福音書の4章は、神様のお取り仕切りある様子をイエス様がたとえを通して伝えたことが書かれています。それは惜しみなく種を蒔く人の姿であり、種が自然と成長するように知らぬ間にゆっくりと静かに確かに働く世界であり、壮大な杉の巨木でなく小さなカラシダネのような身近な生活の場が神の舞台でした。聞いた人たちは、日常の言葉で福音を知り、生活には神の眺めや思いが豊かに加わったことと思います。しかし、4章後半。嵐はその平安を吹き飛ばしました。「神の国、理解度チェック実践テスト」を受けた弟子たちにも思えます。▲「向こう岸に渡ろう」と誘ったのは、イエス様でした。神の御子の誘いですから、間違いなく完遂され、きっと向こう岸に行けるのでしょう。しかし、弟子たちは恐れました。沈むのではないか。とても、人を責めたくなりました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。センセー、寝てる場合じゃないでしょう、センセー、あなたが誘ったのですよ、センセー、水をかき出すのを手伝ったらどうです、センセー、せめて神に祈ったらどうです…。いろんな含みがあったでしょう。しかし、イエス様は、風と湖に「黙れ、静まれ」と言われました。なんだか弟子たちに伝えたほうがよいような言葉ですが、神しかできないはずの自然の支配をイエス様ができることを人々は知りました。湖は凪になりました。▲それ以降、彼らはもう恐れなくなったとか、さらにイエス様を崇めたとか、書かれていません。オチのついた物語でなく、「いったいこの方はどなたなのだろう」との問いが生まれて終わります。その問いに最初に答える8章まで、まだ少しありますが、やがて「あなたはメシアです」と告白するようになります。そして、その告白はいつでも刷新される恵みがあります。その度ごとに神が近づいて来られるのを感謝して受けるのみです。




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