巻頭言
2015年1月


2015年1月4日

「クリスマス後」

犬塚 契牧師

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。…シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。  <ルカによる福音書2章22‐38節> 

 最初のクリスマスから40日、ヨセフとマリアは産まれたばかりのイエスを連れて神殿へ出かけました。マリアの出血の汚れから清められるように、また初めての子を贖うために、捧げものを持って出かけたのです。彼らの準備できた精一杯は、貧しい家庭のそれでした。「…山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった」(24節)。神殿は実にたくさんの人の出入りがあったことだと思います。祈りの声に交じって、至る所から動物の声もしたでしょう。今しがた着いた礼拝者も毎日祈りにくるグループも再びの独立国家を願う愛国者も集まって来ていたことでしょう。伝統的に老人と言われるシメオンはどうしてそんなごった返す神殿で救い主イエスを見つけることができたのだろうと思います。これに対しては、ルカは書き方はあまりにあっさりしています。 25〜27節―「聖霊が」… 「聖霊から」…「霊に」…と同じ言葉を続けるのみです。2000年後を生きるものたちにとっては不親切に思える書き方です。もっと、出会いの前触れから始まって、神殿でのひらめき、さわぐ心、確信に至った瞬間まで記してくれればよかったのにとも思います。ルカが詳述しなかった理由は、本当に大切なその人自身と主との出来事とは、ほかの言葉で表現できないものだからなのでしょう。すべての人のうちに、イエスキリストだけが与えることのできるいのちの接 点があると信じています。それは、人の有様の如何に関わらず、失われることのない接点です。神に似せて造られた被造物の特権です。私たちが自分自身を知る以上に神は私たちを知っておられます。私たちが知る以上に神は私たちに近くおられます。



2015年1月11日

「そのお方が来られると」

犬塚 契牧師

 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 <ルカによる福音書3章1−20節>

 ルカ3章。歴史上かつてないほどにメシア到来の期待が高まり、あちこちにメシアと名乗る人々が現れた当時、イエスキリストよりも半年前に誕生したヨハネが、荒野で悔い改めのバプテスマを導いていました。イエスキリストは後にこう語っています。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」…「『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』(マタイ11章)。洗礼者ヨハネは、新約聖書に登場してはいますが、最後の預言者としての働きをしています。だから、福音書を読みながら、旧約聖書の最後を読んでいるという感覚は正しいと思います。イエスキリスト登場の前座とか予告程度のものでなく、「葬式の歌」を歌った預言者でした。そして、それを歌うことによって、救い主イエスキリストしかできないことを指し示したのです。悔い改めに来た熱心な人々に、「蝮の子らよ」と迫ったのがヨハネでした。非常に尊敬していたり、ある程度の権威を身に帯びている人から、そんなことを言われたならば、不安で震えてしまうに違いないと思います。闇を垣間見た人に(だからこそ荒野にわざわざ…しかし)、さらなる闇を知らせるのです。まさに葬式の歌でした。震え上がる人々はヨハネに当然、問いました。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」。▲大きな力に触れ、恐怖の中に置かれると、人は自分の行動の良し悪しを考え、直そうとしたり、変えようとしたりするのでしょう。それも捨ててはならない、大事なことだと思います。しかし、私は自分の「悔い改め」を大して、信用できなくなりました。それでもイエスキリストの慰めがあります。3章でヨハネを登場させたルカは、15章でイエスキリストが語る悔い改めの在り様を書いています。有名な「放蕩息子」のたとえです。それは悔い改めた息子が、それゆえに迎えられる物語でなく、愛を放蕩する父のたとえでした。



2015年1月18日

「わたしは生きている」

犬塚 修牧師

 「恐れるな。私は最初の者にして、最後の者、また生きている者である」<ヨハネの黙示録17〜20節>

 老聖徒ヨハネは「囚人の孤島」と呼ばれたエーゲ海のパトモス島に流され、そこで神からの黙示が与えられた。人は年老い、衰えて空しく消えていくの ではなく、神から大切な使命が託されている。彼は神の大いなる声を聞いて振り返った。この行動が新しい歩みの出発地点となった。「振り返り」は「主を信じる」事である。私達はどうしても眼前の現実に心が支配されてしまいやすい。悪しき出来事に心が振り回されて、あらゆる事に対して否定 的、虚無的になる。その魔の誘惑から解き放たれるためには、思い切って主に向かって振り返る勇気と信仰に立つ事である。▲「わたしは最初の者であ る」ーー復活の主は栄光と威厳に満ちておられた。その姿を見たヨハネは「死んだ者のようになった」彼は自分の無力を知り、謙って主を礼拝した。そ の時、主は顕現された。「事の起こる時、わたしは常にそこにいる」(イザヤ48:16)出来事は偶然に起こるのではなくて、主の深い節理の中で起こされる。主は右手でヨハネに触れられた。その手は天を創造された全能のみ手でもあった。(イザヤ48:13参照)塵芥のような極小な私達に対し 全能の神が完全な愛の支配を成し遂げて下さるのである。「お前たちをエジプトの地から上らせ、四十年の間、導いて荒野を行かせ、アモリ人の地 を得させたはわたしだ。」(アモス2:10)試練を通して、主は義の道へと私達を導いて下さるとは、何という感謝であろうか。▲「わたしは最後の者である」−−私達にとって、確かに責任感は大切であるか、責任感を持ち過ぎる事は良くない。最善を試みて、努力する事は望ましいが、それでも、その結果や最後の部分は主にお任せしなければならない。そこは主の「神業」の領域である。自分で何もかも完成しなければならないと思い詰める必要 はない。▲「わたしは生きている」ーーー主は生きておられるので、私達は自分の苦しみをそっくりそのまま主にお任せできる。復活の主は今も、また 永遠に生きておられる。主の命は、外観的なものではなく、隠されている。私は一人の友人を思い出す。彼の人生は予期しない重い病、家庭の不幸、境遇の大きな変化、苦しい生活となっていった。しかし、彼は「僕は本当に幸せだ。僕は今まで見えなかったイエス様の愛が分かるようになった。これまで僕は特急列車の乗って生きてきたが、ようやく鈍行列車に乗れた。僕の目に触れるものは新鮮で麗しく感じる。」と語った。彼の中に主の命の躍動感を感じた。



2015年1月25日

「全能の神・・・」

犬塚 契牧師

 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。 <創世記17章1-8節>

 前章16章は、子の産まれない妻サラの身を削るような申し出と、女奴隷ハガルから子を得るようになったアブラハムの話が登場します。時を待たず、それぞれが願った通りにイシュマエルが生まれるのですが、サラの複雑な心とハガルの驕り、アブラハムの思考停止が絡み合って、家族の状況もその心も散らかってしまいます。ハガルは出ていかざるを得なくなり、逃亡しますが、エル・ロイ(省みられる神)なる神の働きによって、彼女は戻るのです。一気に好転したわけではないと思います。その後のなお変わらない空気と日々の緊張があったでしょう。一人の女性への神の計らいとその信仰の歩みがあります。そして、アブラハム…。イシュマエルのことは、アブラハムの生涯に終生まとう痛みであり、課題でした。創世記17章。その時から13年経ちました。彼は99歳になっています。13年は、神の長い沈黙に思えます。ユダヤではイシュマエルが成人を迎える時でもありました。それによって一族の先の想像も浮かんだでしょう。一方で、アブラハムには人の限界と達し得ない悲しみと拭えない出来事が見えていたように思えます。ならば、なおさら「全き者となりなさい」とは、本当にキツイ言葉に思えます。限界を知らなかった若い時ならば、挑戦したかも知れません。アブラハム99です。私たちもここを読む時に心が騒ぐこともあるかも知れません。不十分さへの責めと感じることもできます。しかし、語られているのは、道徳的な完全さでなく、神との関係性において「全き者」であれということであり、「神を信頼して歩みなさい」とのことでした。それは神の前で人の正しさが砕かれ、だからこそ降参しながら、「全能の神」でしか救い得ない自らを預けることのように思えます。




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