巻頭言
2014年1月


2014年1月5日

「ハンナの祈り」

犬塚 契牧師

 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」 ルカによる福音書 2章22-32節

 ごった返す神殿の境内へユダヤの掟(律法)に従うべく、若い夫婦と赤子が向かった。神のものである最初の子どもを贖うためだった。用意された捧げものの家鳩のひな2羽とは、羊に手が届かない貧しい家庭のものだった。彼らは、神殿でシメオン老人と出会う。彼は、メシアに出会うまでは決して死なないとお告げを受けていた。しかし、神殿…。動物の鳴き声と臭い、着飾った祭司や商売人、遠路からの礼拝者と誠実な異邦人、女性たち、メシア到来を祈るグループとローマからの独立を願う血の気の多い人たち…神殿はやっぱり雑音が大きかったと思う。しかし、シメオンもアンナもその中で真に心を神に向けて祈れる人たちだった。彼らは、そういう祈祷グループに共に属していたのかも知れない。そして、シメオンは赤子であるイエスキリストを見つけて、上記の告白をする。なぜ彼はこの弱い赤子をメシアとして喜べたのだろうと疑問が浮かぶ。これについては、ルカはただ2章25-27節まで、同じ言葉を続けるのみである。「聖霊が」…「聖霊から」…「霊に」…。▲シメオンが老人であるとはどこにも書いていないのだけれど、「この僕を安らかに去らせてくださいます」との言葉は、それを裏付けているように感じる。彼は生きたかったのか、去りたかったのか…。そして、目の前の弱くなった神の子イエスを前に、“霊によって”神のお心の深さを知り、自分の人生の慰めとイスラエルの救いを見出した。これほどまでの神の姿はどういうわけかシメオンの魂の琴線に触れた。ふと、浮かぶ。「シメオンという人はいったいどこを通って来たのだろう」。私たちもまだどこを通って、イエスを主と告白するを得るのだろう。どこを通って来たのだろう。「私たちはほんの少し遜るために、どれほど多くの蔑みを必要とするのだろう」との言葉を思い出した。



2014年1月12日

「イエス様の仕事始め」

犬塚 契牧師

 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。  ヨハネによる福音書2章1-11節

 2014年の最初の礼拝。聖書教育の聖書箇所。イエスキリストの最初の奇跡は、ガリラヤのカナで行われた。イエス家族が住むナザレから、距離も関係も近い家族の結婚式だったのだと思う。指定の日の1時間ほどの結婚式でなく、1週間も続くような喜びの宴だった。人々は刺繍の入ったよそいきを着て、歌い、踊り、食べ、飲んだ。30歳を過ぎたであろうイエスキリストと新しい弟子たちも招待された。しかし、弟子たちが飲み過ぎたか、ワインが足りなくなった。新郎新婦にとってそれは恥ずかしいことだった。近しい人の結婚式、台所事情を知りながら率先して手伝いをしていたマリアは、息子イエスに頼む。「ぶどう酒がなくなりました」。マリアは何を期待したのだろう。息子の超自然的力をかつても見たことがあったのか、それとも焦燥の中の漠然たる信頼か。新約聖書に書かれているそう多くないイエスの奇跡の多くは、広めないようにと口止めと一緒に記されている。奇跡に信仰は必要でも、奇跡から信仰が生まれることはまれだった。驚きはしても、人は信じはしない。それでも書かれた奇跡はイエスキリストを通した神の力や性質を表している。奇跡はあるべき形の瞬きの模写であり、もれ聞こえる神の本音と読みたい。神が数年の時間と労力と葡萄の枝を通してなされる水がワイン変わる過程を、カナでは時間を越えてなされた。そして、ヨハネは最初の奇跡を魔術でなく、しるしとする。起きたこと以上に、示しているものがある。カナで水をワインに替えたイエスキリストは、ご自身の血を贖いの代価へと代えた。そして、神は人を取り戻し、宴をまた始められるのだ。すべての礼拝するものは、そのことをもって神の心を知り、ふところに置かれることの幸いを得るのである。ヨハネは福音書の最初にカナの婚礼の記事を載せた。きっとワクワクしたと思う。



2014年1月19日

「なにゆえなのか」

犬塚 契牧師

 「困ったことをしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか」  創世記34章

 ペヌエルでの神との格闘とその勝利、兄エサウとの20年来の和解…ヤコブの生涯が癒しの階段を順調に登っているようにみえた。しかし、34章はその中にあって、ヤコブ一家に起きた哀しみの事件を記している。ヤコブとレアの娘ディナが滞在先で首長の息子シケムに辱められた。たとえそれが後に愛へと変わっても、赦されることではなかった。現代の倫理観だけでなく、創世記が書かれた時からそうだった。「…してはならないことであった」(7節)。やがて、ヤコブ一家とシケムの部族を巻き込んでの結婚騒動となる。34章には、相手先から戻らないディナの声は聞こえない。父親ヤコブは、黙り込んでしまった。創世記はあえてレアの子であることを記して、黙りこんだヤコブの理由を描いているようにも思える。なおヤコブの弱さが出たか。一方、当事者シケムは父親と結婚相談に来るが、ヤコブ一家への謝罪はなかった。部族説得には家畜と財産が増えることを結婚の材料としているから、欲望の延長に引かれた結婚のようにも読める。ヤコブの息子たち、特にレアの息子たちは怒ったが、彼らが大事にしていた割礼の儀式を、相手を殺害するための道具として使い、倍返しで足らず100倍の仕返しをした。明らかに行き過ぎであるが、ヤコブは、なお自分の心配をし、かつての神のベテルでの約束「あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」を忘れてしまった。34章で正しい反応、判断、対応ができた者がいるだろうか。嘘のように悲しい家族と人々の有り様がある。そして、ついに祈りも生まれず、「神様!」と言う言葉も、神の語りかけもない。底知れぬ沈黙と現実が34章に覆う。救いは天からだった。35章『神はヤコブに言われた。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」ヤコブに祈りの祭壇を差し出された神は、私たちにはイエスキリストの十字架を差し出してくださった。



2014年1月26日

「わたしが選んだのだ」

犬塚 修牧師

 「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」 ヨハネによる福音書15章16節

 私たちは自分の決断で神を信じ、救われたと思いやすい。しかし、神は「否、 私が選んだ」と強く言われる。もし、私たちが長く信仰生活を続ける事ができるとしたら、自分の熱心さやがんばりや情熱によらず、ただ、神の選びと恵みによるのである。「私が選んだ」という考え方に立つと、息苦しさを覚えたり、無用な責任感で苦しむ事さえある。私たちの意志力や感情は決して強くはない。「私が神を選んだ」から「神が私を選んだ」という考え方の転換をする事が人生の祝福の第一歩となる。その人は全責任を負って下さる神にすべてをゆだねて平安に満ちて生きる事ができるであろう。▲神が選ばれたのは、人間は主の十字架の救いのゆえに、極めて「高価で尊い存在」とされているからである。命に格差をつけたり、また差別してきた暗い歴史を繰り返してはならない。神が創造されたかけがえのない人間を値踏みして、ある者を尊貴とし、ある者を奴隷のように扱う事は、人間に対する侮辱であり罪である。(詩編8:6)▲次に「愛し合う」事が命じられている。愛とは相手を大切な尊い存在として受け入れ、友となって共に生き、助け合って歩む事である。「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨み抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。」(Tコリント13:4〜6)愛には恐れがない。愛に生きる人は神から豊かな祝福を得る事が約束されている。そのためには聖書のみ言を「絶えず」思い起こす事が求められる。愛に生きるためには聖書のみ言をしっかりと信じ、そのように生きてみる事である。「時々・しばしば・たまに」思い出すのではなく、絶えず響き渡る鐘の音のように、四六時中、心に覚えて忘れないならば、どんな祈りも叶えられると記されている。(15:7)いろいろな問題で心が弱くなり、また辛く、苦しい時に、変わらない平常心で乗り越える事は確かに難しいが、それでも、何としてもみ言に心を寄せ、真実に主のみ言に従う人は、必ず大いなる恵みを得るであろう。忍耐強く勇敢な生き方を貫きたいものである。





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