巻頭言 2012年01月 |
「かなたからの礼拝者」
犬塚 契
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」 マタイ 2章10〜11節 |
13世紀、シリヤのフレデリック二世は数人の生まれたばかりの赤子に一切、語りかけてはならないと厳しく命じた。その結果、全ての赤子は死んだ。人間は愛の言葉を語ってもらわないと死んでしまう。クリスマスの出来事から、私たちは「あなたを永遠に愛している!」という神の熱い呼びかけを聴きとる。母マリヤは「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます!」という喜びのおとずれを聴いた。主イエス様のお誕生によって、人類に完全で永遠の救いがもたらされた。主は私たちのために、貧しさの極みである飼い葉桶の中で生まれた。主は病や死の恐怖に打ちひしがれていた私たちに、勇気と愛と永遠の命を与えるために来られた。その愛は温かく、限りなく優しい。▲しかし、ヘロデ王はメシヤの降誕を喜ばず、不安を感じた。利己的に、わがままに生きられないので、イエスが邪魔に感じたのだ。「人間は9つの良いことがあっても、1つの不満があると、そちらに心が奪われて、感謝することをすっかり忘れてしまう。」とあった。▲ハマンはユダヤ人モルデカイが自分に挨拶しなかったという事だけで、怒り狂い、ついにユダヤ人大虐殺を企てる。人間の不満感の怖さがここにある。心が主から離れると、一つのいやなことがいつの間にか、怪物のようにふくれ上がることはないだろうか。私たちに必要なものは感謝と謙虚さである「この弱い罪人の私を愛して下さって…感謝です!」というへりくだった心を、日々、持ち続けたいものである。▲学者たちは、黄金、乳香、没薬をイエス様にお捧げした。これらは「主イエス様は全人類の王、大祭司、あがない主である」という真実な信仰の告白である。▲この主に従うならば、私たちの未来は喜びに満ちたものとなるであろう。未来は神の領域である。主は私たちのために死んで一切の罪と呪いと罰を引き受け、信じる者に赦しと祝福を用意された。新年を喜びと信仰で迎えたいものである。たとえどんな試練が襲おうとも、主はそのすべてをプラスに変え、苦しみを背負って愛の業を貫き、完成して下さる事を確信して。
「新しい歌で」
犬塚 契
新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。…国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。 詩編96編 |
バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民が、驚きと喜びの中で歌ったではないかと言われる詩編96編。捕囚によって自国を失った民族の末路はすべて同じで、二度と自由を得ることなく歴史から静かにその民族は消えていくのが常だった。しかし、他のどの国のどの神も成し得なかったことが自分たちに起きたと彼らは歌う。いまや、自信をもって「新しい歌」を歌い、国々にふれて言う「主こそ王」と。▲生産と廃棄の繰り返しのような新しさではないのだと思う。これまでが忘れられて、忘れたくて、ただただ塗りつぶされて色が変わるような、色が変わればいいような新しい歌でもないのだろう。飽きて古くなったから気分転換をという新しさでもない。「日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ」と歌われた。今をもって振り返ってみると「なるほどそんな道をも残されていたのか」というような喜びの気付きが与えられ、「日から日へ」の連続性の中で織りなされる神の恵みの業を礼拝者たちは賛美したのだと思う。それはまだ生きていない日へも続く希望ともなった。彼らにも私にもやはり「新しい歌」は必要なのだ。十字架すら救いの方法へと変えられる神、いっさいをよきことへ変えることのできる神がおられるとすれば、私たちもまた捨て去られるような歴史を埋めているだけの存在なのでなく、神のなされる働きを信仰をもって味わい、新しい歌を紡いでいく者なのだ。どうかどうか「何か意味があんのかなぁ」という時に心を占領するため息が、「新しい歌」へと招かれ、「主こそ王」という告白に至るようにとあらためて祈り願った。
「一筋の心で」
犬塚 契
御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。 詩編86編11節 |
いくつもの鳥居をくぐって出会う神でなく、何か刻まれた像でもなく、得体の知れないものでもなく、歴史と預言者を通して知る神に祈る時、それもウンと傷つき、攻撃に合い弱り果てている人が、ひざを折り祈る時、どんな祈りを捧げるのだろうかを知ることができるのが詩編86編。▲次の言葉が整わないまま自分を投げ出すような祈り。上手に手を組むことのできなかった若い日、ダビデのように祈ってくれる人がいれば、自分が罪人だとの嫌悪が、神を遠ざけるものではなくむしろ神により頼むことへとすみやかにつながったかも知れないなぁと思う。(…で、今きっとそう祈るべきなんだ)。ダビデが神のお気に入りに数えられているのは、「それでも祈る人」であり、神に愛されることをやめなかったからだ。▲祈りには3段階あると教えられる。@「助けて」という祈り。ダビデの祈りの始まりは、「…わたしは貧しく、身を屈めています。」というものだった。大人は助けてとは言わないものだし、洗練され、成熟していると思われたい。もっとスマートに生きたい。「そんなところ生きているの?」とは、言われたくない。むしろ…言いたい。しかし、祈りの場は、まず自分が恐れを持つものであり、傷つきやすい存在であることを神の前に認めることへと魂を導く。そして、A「聴く」祈り。瞑想と迷走の中で、自分が何に立ち、どこに向うのかを知らされて祈りの言葉はつながれていく。「主よ、あなたのような神は神々のうちになく/あなたの御業に並ぶものはありません。」(8節)B最後に「一筋の心をお与えください」との祈り。自分で支配を広げるような願いから、神のお心を知り、生活の隅々まで、主を恐れ、敬うことを求める祈りへと導かれる。神の署名を書き換えて自分のものとすることを望まない心を与えられたい。
「大空の下で」
犬塚 修
天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。 詩編19編2節 |
ダビデはサウルのねたみや激怒によって、執念深い攻撃を受け、苦しみ続けた。しかし、天を見上げることで、心に慰めと平安を神から与えられて耐え抜いた。その苦悩と葛藤は前章の18篇に記されている。何事があっても、絶望しないで生きる秘訣は、天の神への信仰と知っていたのだろう。私たちは絶望的な状況の中で、広大な天を仰ぐ。そこに確かな希望が広がっている。義人ヨブは、なぜこんな耐え難い苦難に遭わねばならないのかと、自問し、苦しみ、悩み、その意味について神に訴えた。ついに神はヨブ記38章において答えを与えられた。「腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ」(3〜4節) 神はヨブに天地創造という原始世界を示され、それに比べて人間の小ささ、限界性を順序正しく教えられた。ヨブはあるがままの自分を知るにいたる。神の支配の豊かさや万物について、何一つ知らない幼子のような自分を認めた。その時、彼の高慢さは粉々に砕かれ、静かな平安が戻ってきた。と同時に万物の創造者、永遠の神がからし種のように小さな自分さえにも、無尽蔵の愛とあわれみを持っておられることに感動した。「誰が烏のために餌を置いてやるのか。その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出るとき」(ヨブ38:41) とある。烏のひなにまでも愛を注がれる神であることを悟った。「太陽は、花婿が天蓋から出るように、勇士が喜び勇んで道を走るように」(6節)神は太陽を用いて、無限の愛を示された。義の太陽であるイエス様は私たちの人生を暖め、光り輝くものとして下さる。「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」(11節)イエス様に従い、聖書のみ言を誠実に守って生きる人は、金のように輝き、蜜のような甘美な心を得る。▲「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください」(13節)主に従う人は、あらゆる罪から清められる。あらゆる汚れ、罪、思い煩いからも断絶され、決して傷つかない生き方が可能になるのである。
「神を慕う」
犬塚 契
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。 わたしはなお、告白しよう 「御顔こそ、わたしの救い」と。 詩編42編6節 |
自らを鹿にたとえるところから始まる詩編の42編。雌鹿は出産の前には絶食状態になり、無事に出産を終えると川に下り、水だけを飲んでしばらく過ごす。しかし、パレスチナの川は雨が降った時だけ水が流れるワディという川が多く、普段は枯れたような状態にある。秦野市を流れる水無川のイメージが浮かんだ。必死に水を求めたのにそこに流れていない。流れるのは涙ばかり…この詩人は、今そんな状態だという。彼は過去を思い出す。「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を 祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを。」(5節)この箇所から、かつて彼が礼拝において大切な働きをなしていた祭司ではなかったかとも言われる。どうしてかは分からないが、彼は礼拝の場を失っているという。その後の6節が上記の聖書箇所「なぜうなだれるのか…」で、全部で3回繰り返される。離れては、何度もこの告白に戻ってくる。「御顔」とは神存在そのものであって、その顔を見ることさえできれば彼は救われると知っている。しかし、彼は顔を上げられない。「お前の神はどこにいる」といわれた言葉は自分の言葉でもあるのだろう。ならば、繰り返し「神を待ち望め」と言わしているのは誰だろうか。全く望みない時に望みを抱けるほど人は強くはないように思う。神の御顔を仰げぬ時に上を仰ぐほどの強靭さもない。そんな中で導かれるのは、なお神の御顔は自分に向けられていると知り得る恵みではないかと思う。ペトロは女中に脅え、3度知らないと断言した後にも自分を見つめたイエスキリストに泣いた(ルカ22章)。詩編42編で3度も続く繰り返しの言葉は、ただの自問自答、追いやられた人の独白、独り言でない。なお、その口にセリフをつけられる神がおられる。今日をなお告白に導く神がおられる。