巻頭言
2010年1月


2010年1月3日

 「達し得たところに赦しをいただきながら」

牧師 犬塚 契

…わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。 フィリピの信徒への手紙 3章16節

意外とパウロのこの勧めのようには生きていないものだと、常々思 わされている。また、中々こう言ってくれる人もいないのでないか と考えたり、自分はこんな言葉を話しているだろうかと自問もする 。この言葉には、平均や人との比較の中で自分の位置を確認しなが ら生きることが当たり前の世界で、焦らすのでもせかすのでもなく 、それぞれの一歩があるのだとの励ましがある。階段は2段3段も跳 ばして上がらなくてもよい、1段ずつ上がればよいのだと。▲人へ の恐れから夜にしか活動できなくなった女性が、周りの励ましによ って少しずつ元気になっていく様子をテレビで見た。最近、ようや く勤めた職場で、初めてお茶を誘われたとカメラに笑った。「本当 に嬉しくて涙が出そうでした」。レポーターは余計なことを聞いた 「それは、男性ですか?」。間を置かず彼女は答えた。「もちろん 、女性です」。自分の歩幅を知って、それに従って歩みを始めた人 の顔はなんだか潔く、心地よかった。▲人の到達点が低く見えると その人を責め、振り返って自分の到達点が低いと思うと落ち込む。 友人間、家族間、職場でもそんな繰り返しがあるだろうか。自分も 属す不自由な人の姿がある。それでも時々そんなタガが幸いにも壊 れた人々を見つける。主に障害や病い、弱さを抱えた人々や家族に 見るのは神の愚かさか(Tコリント1章)。▲グループに分けるで なく、タイプ別に関わるでなく、それぞれの「到達した」ところを 赦し、「傷ついた葦を折ることなく」(イザヤ42章)導かれる神に 聴く一年でありたい。



2010年1月10日

「大河のように」

牧師 犬塚 修

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かってい るのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」 (ロマ11:36)

パウロにはどうしても解けない難問題がありました。しかし、神の 啓示に導かれ、ついに解決の光を発見したのです。ここに感動に満 ちた告白の言葉が讃美のような形で記されています。「ああ、神の 富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽く し、神の道を理解し尽くせよう!」(33節)旧約の詩人も「わたし は知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除 くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められ た」(コヘレト3:14)と感嘆の言葉を残しました。私達には不可解 に思える事柄については、無理して分かろうとせず、神の永遠のご 支配と摂理を確信して、一切を受け入れる事が肝要です。ロマ11:36 を読みますと、パウロの魂には大河の流れ(創世記2:13〜14)が あった気がしてなりません。その大河はとうとうと流れ、ある時は ナイアガラの滝のような大瀑布となり、またある時は鏡のような静 けさを保ちつつ、最後は大海に注ぎ込むのです。その静かな流れは 神の摂理のように雄大で、すべてを飲み込んで泰然自若としていま す。まことに神のなさる事は大河のようです。あらゆるものを受容 し、すべてを生かして進む神の義があります。私たちの心に流れる おびただしい生ける水は聖霊であり、一人一人の歩みを潤いに満ち たものと信じます。



2010年1月17日

「蛇足」

牧師 犬塚 契

そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠 く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄っ て首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に 対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼 ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急 いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめ てやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて 来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き 返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を 始めた。  ルカによる福音書15章20節〜

この放蕩息子の例えは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一 緒にしている」というキリストへの批判の後に登場する。読み直す とひどい息子だと思う。父親の遺産をもらい、数日で現金化して、 遠い国へ飛び立って、瞬く間に浪費した。父親の想い出の品々もす べて泡と消えた。彼は、親のスネをかじるのを越えて、骨を砕いた 。しかし、父親は帰って来た子を遠くから見つけて走り寄って接吻 し、そしてパーティーが始まる。▲神様が罪人をどう見ておられる のかをイエスキリストは教えられた。そこにあるのはどこまで続く 法外な赦しである。条件をつけて関わったり、関わられたりする生 活が長かった、人も法外な赦しの前で条件をつけたがる。最低限を 定めたり、悔い改めの証拠を求めたり、その後の歩みを保証させた り…。しかし、聖書の神の前ではすべてが蛇足だ。罪人を何よりも 先に赦し、愛する神に私側から差し出すものはない。



2010年1月24日

慰めに満ちた神

牧師 犬塚 修

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、 慰めを豊かにくださる神…。神は、あらゆる苦難に際してわたし たちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰 めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができま す。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる のと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満 ちあふれているからです。                                                        Uコリント1:3〜5

「イエス様を信じます」と言われた一人の方に「どうして主を信じ たいと思ったのですか」と質問した時に、その答えが上記のみ言葉 の引用でした。その方はある出来事で、心が落ち込み、立ち上がる 気力がなくなっていたといいます。そんな時に、聖書を開いて読ん でいる時に、この「神の慰め」についてのみ言葉が心の中に、しみ じみと染み込んできたと言います。聖書のみ言葉をそのまま受け入 れた瞬間、その方は確かに生きている神様と出会ったのだと信じま す。それは信仰のすばらしい経験です。「誰も自分をよく理解しな くてもいい。神様だけは私のことをすべて分かっておられると思う と、暗い心も次第に明るく変えられました」と言われました。人は だれでも様々な体験をして生きています。時として、嬉しい事ばか りでなく、それゆえに生きる自信を奪われるかもしれません。けれ ども、暗いジメジメした谷間から天上を仰ぐと、太陽の光が真っ暗 な谷底を照らし出すように、もし私達が主を見上げるならば、私達 の心を明るく輝かす天来の光があります。それは神からくる深遠な 慰め、永遠の慈愛の光です。神は私達のすべてを完全に理解し、豊 かな解放の道を備えて下さいます。



2010年1月31日

「〜にも関わらず」

牧師 犬塚 契

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わ たしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました 。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたち を愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 Tヨハネ4章10-11節

昨年の「共依存の学び」が終了し、今年から月に一度の「自己受容 の学び」が始まった。山形カウンセリングルームの渡辺裕子先生が 大切な学びのキーワードを始めに教えてくださった。「自己受容と は、〜にも関わらず私が好きということです」。学びの最初にそう 伝えてくださったので耳に残り、その後何人かに伝えたので、少し そう思うような癖がついた。失敗や弱さ、人との比較で落ち込むよ うな時に、一言「にも関わらず自分が好きだ」と付け加えるとユー モアやゆとりが生まれるのだと知った。なるほどこれは、いたずら に落ち込むよりもずっといい、そう思った。▲士師記を読んでいる 。「〜にも関わらず、神はわたしを愛している」というメッセージ が溢れている。聖書に一貫して流れていることばだと思う。義務教 育から始まる学生時代に聞けたことばは、精進とか努力とか切磋琢 磨だった。大事だとも思う。しかし、ふとそこから外れたと感じる 時に必要なのは、恵みだ。「にも関わらず」の恵み。私たちの歩み はやはり精進というよりも、恵み探しであると思う。それを分かつ 教会でありたい。


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