巻頭言
2009年1月


2009年1月4日

「生きているキリスト」

牧師 犬塚 修

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生き ておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、 わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 ガラテヤ2:20

私はパウロの一生は、深い平安と聖霊による喜びに包まれていたと信じていま す。彼の歓喜の秘密はガラテヤ2:20にある気がしてなりません。彼は生きてい るのは自分ではなく、キリストが私の内に生きておられると告白しています。 即ち、彼自身はすでに死んでいたのです。人間的な思いが生々しく生きている と、どうしても思い煩い、悩みも尽きませんが、死ぬと無感覚になり、何があ っても平気です。たとえ苦しい出来事があっても、痛みもなく、自分とは関係 がありません。パウロは、自我の死こそが、信仰の高嶺と信じていました。け れども、私達は、死ぬ事はすばらしいと理解できても、中々、そこまで到達で きず、どうしても目の見える状況に悪影響されてしまいます。自我の死は至難 の事です。どうしたら良いのでしょうか。その信仰に至る道は、第一に「神が 身の丈のままのわたしを愛しておられる」事を確信する事と思います。第二は その愛に導かれて、現在、自分がしがみついているものを断念する事と信じま す。自分の希望、願い、夢、幻を再吟味するのです。自らが執着していたもの が、本当に自分にとって最善かを問うのです。主はもっとすばらしい未来を用 意しておられるかもしれません。パウロは「わたしたちは…一日中死にさらさ れ、屠られる羊のように見られている」(ロマ8:36)「わたし自身は、既にいけ にえとして献げられています」(Uテモテ4:6)と大胆にも自分を神へのささげ ものと呼びました。彼は一切を主にゆだねました。その生き方が楽になる秘訣 であると悟っていました。自分を主に任せた人が真の自由人です。



2009年1月11日

「迷子」

牧師 犬塚 契

あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出 たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かない だろうか。   マタイ18章12節

羊は目が悪いと聞く。危険な道や状況は、耳から知るのだと。だから、安全 に導く羊飼いの声には素直に従う必要がある。イエスキリストの例えに登場 する一匹は、なぜ迷ったのだろうと考える。他の99匹の後をとぼとぼとつい て行くのが楽だったと思う。だいたい羊は一匹ではどうにも生きて行けない 。それでも、前の羊のおしりを見るのに飽きたか、湧き上がってくる冒険心 、好奇心か、我が道を行った。近視という自分の制約を超えて迷い出た。▲ ニュージーランドの雄大でも険しい自然。ふと白骨化した羊を見ることがあ るという。迷い出た羊だ。牧場主はそもそも一匹のために探しには行かない 。渓谷に挟まった羊をクレーンなどの重機を出し、時間と労力を割いて助け 出すにはコストがかかりすぎるのだという。だから、このイエスキリストが 用いた例えは法外に映る。▲99匹の内にいると思っている時は、1匹への理 解も共感も生まれない。勝手な「自己責任」だと思う。人に冷たく当たる自 分がある。しかし、意外と立場はたやすく変わる。わが身を見るとやはり99 匹に属するよりも1匹の方なのだと…。そして、ようやくイエスキリストの 例えが「法外」に映る。情けないような、嬉しいような。「わたしは世の光 」とイエス様は語った。光は希望を示すが、同時に隠された闇も照らす。両 方があるのが、信仰生活の醍醐味なのだと思えるようになった。 「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、 罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」ローマ5 章12節



2009年1月18日

「逃げないことの祝福」

牧師 犬塚 修

その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、 エジプトに下り、そこに滞在することにした。創世記12:10

信仰の父アブラムの偉大さは言うまでもありません。この人こそ、私達の信 仰の模範であり、その真実な歩みから多くの教訓を学ぶ事ができます。しか し、この人もまた人間的な弱さがあった事に驚き、何となくホッとします。 彼は心は燃えていても、どうしようもない欠点と弱点がありました。それは 、飢饉という目に見える状況に心が萎縮して“恐れおののいた”事でした。 危機的な時には、主にゆだねる事が求められています。アブラムも「主よ、 私はどうしたら良いのでしょうか。人間的に考えれば、何としてもエジプト 行きが正解と思うのです。そこには豊かな食物がありますが、ここには食べ るものも激減しています。」と祈り続けたならば、主は逃れの道を指し示さ れたでしょう。ところが、そのような祈りはここには、全く記されていませ ん。彼は辛い状況から逃げ出しました。その結果、エジプトにおいて、彼は 大変な試みに遭います。彼は心底、不安と恐れと不信仰に陥っていたのです 。このような否定的感情が、私達の信仰を崩す要因です。私達は弱いもので 、状況が余り変わらないと、動揺し、何もかも投げ捨てて、現実から逃亡し たくなります。しかし、そこで踏みとどまり、祈って耐え忍ぶならば、すば らしい祝福が待っています。私達は目に見える“成長神話”ではなく、自己 受容と忍耐という狭い道を進みたいものです。「一生の間、あなたの行く手 に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あな たと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々し くあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継 がせる者である」(ヨシュア1:5〜6)のみ言を本気で受け止め、慌てず、静か にゆったりと、信仰と希望と愛に生きたいものです。



2009年1月25日

「上り坂へ」

牧師 犬塚 契

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものであ る。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。…喜び なさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがた より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 マタイ5章

生きるというのは、なんとも戦い激しく、試練は多い、信仰は揺さ ぶられっぱなしだ。ガリラヤの丘の上、訪ねてきた民衆たちの具体 的課題も深刻だったと思う。それでも、イエスキリストの口から出 た言葉は、「幸い」だった。「…幸いである」。▲随分と「信仰」 があるから、よいことが続くと次は悪いことが起こるはずだと思っ てみたり、生きたことのない先まで分かって不安になったりもする 。しかし、神の支配する世界では、どこにあっても発見できるのは 「幸い」なのだと知る。▲「見るべき面影はなく輝かしい風格も、 好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛み を負い、病を知っている。…わたしたちは思っていた 神の手にか かり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」▲キリスト誕 生の500年前のイザヤ書の預言。その通りの歩みだった。イエスキリ ストの生涯は、苦難の僕として生き、その歩みはどこまでも上り坂 だった。 ▲【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けること がない。…命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主 の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。詩篇23編 ▲願い事は、願って叶うものだと云われてきた。詩篇のダビデは、 すでに何も欠けることなく、恵みと慈しみは追ってくると賛美した 。下っているように見えて、転げ落ちているように見えて、本当は ずーと上り坂なんだと。








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