巻頭言
2008年1月


2008年1月6日

「なかなか言えないことば」

牧師 犬塚 契

主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れな いでください。わたしの救い、わたしの主よ すぐにわたしを助け てください。                    詩篇38編22-23節

「愛してる」がなぜか上手に書ける特別な鉛筆があると言われた。 売れに売れているアイデア商品だという。「へぇー、どんな仕掛け があるのだろう」と思った。丁寧に梱包された箱を解いて、手にし てみると普通の鉛筆だった。いや、少し太いか?それとも芯の硬さ か?上手に書ける仕掛けを探そうとした。「上手に書けるから、愛 してるって書いてみてよ」と促されたので、サラサラと「愛してる 」と書いてみた。「うん、下手だ。いつもより、下手だ。どういう ことだ!」と悩んでいると…。「でも、愛しているなんて、こうで も言われないと書かないでしょ。それがこの鉛筆ができた目的なん だって」。そういえばそうだ。その気になって書いたが、自分の字 を見ながらほとんど忘れていたその言葉を思い出した。▲大人にな ると余計に言えなくなることばがあると思った。上記の記事。詩篇 の記者は、恐らく大人だった。ダビデの詩とある。サウルに次いで 、イスラエルの王になる人物である。「見捨てないでください」な んてなかなか正直に言えるものではない。「助けてください」なん てできるだけ飲み込んでおくものだとどこか思っていて、どこか強 がってみせるものだ。しかし、ダビデは自分の立ち位置を知る人だ った。▲日々の歩みの中に、こんなにもリアリティーある神へのこ とばが溢れていければよいと思った。ダビデには、「○○○が上手 に書ける鉛筆」は必要なかったかもしれない。



2008年1月13日

「教育と献身」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰 が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがこ こにおります。わたしを遣わしてください。」主は言われた。「行 け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ 、しかし悟るな、と」                         (イザヤ6:8〜9)

新しい年を迎えました。この年、全能の主がどんなすばらしいみ業 を現して下さるか、大いに期待しつつ、主のみ言葉に真摯に従いま しょう。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 を愛しなさい。」(申命記6:4〜5) さて、主の祝福を受けるため、 私たちは心を主に向け、主の命令に従う決断をしなければなりませ ん。その良いモデルとして預言者イザヤがいます。イザヤは神の呼 びかけに応え、献身者として自分自身を神に捧げました。しかし、 神の答えは意外なものでした。すなわち、どんなに宣教されても、 イスラエルの民衆は心をかたくなにすると厳しい予言であったので す。おそらく当のイザヤも失望落胆し、燃える献身的な決意が揺ら いだかもしれません。だが、この主の答えにはある意味が隠されて いたのです。主はイザヤに生きる事の厳しさを教えらました。浅い 思慮、甘い見方、安直の理解をしないようにとの戒めがこめられて いました。何が起ころうとも、悲しまず、黙々と主に信頼し続ける 事を示されました。現実を鋭く見抜き、いかなる時でも、主に絶対 的に従いましょう。厳しさの中でこそ、透き通った信仰は訓練され ます。



2008年1月20日

自そん心

牧師 犬塚 修

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができ ない。 ヨハネ5:14

自そん心とは“自尊心”と書きます。しかし、この言葉は“自遜心 ”とか“自損心”がピッタリとする事はないでしょうか。すなわち 、“自遜心”は自分の能力の高さを誇り、うぬぼれたり、弱い人を 見下して自分が人よりも優位に立とうとする曲がった心です。それ は傲慢、不遜さに取り付かれている肉の心です。そこには中々、主 の恵みは届きません。自らが主を拒否してしまうからです。また“ 自損心”は、自分を悲劇の主人公と見なし、不満と怒りのままで、 悲しみながら生きる心です。いつも自分は貧乏くじを引いているよ うに思い込んでしまいます。ここでは劣等感が隠されています。何 事をするにも、消極的で恐れや不安や心配事で心が一杯になってし まいます。それに対して、“自尊心”と、正確に自分を見つめる健 全な心です。主はあなたを“世の光”と呼ばれました。「わたしは あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める 。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、 あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによっ て祝福に入る。」(創世記12:2〜3) とあります。これはアブラハム に対する神の約束です。そして、私たちはこのアブラハムの子孫で あり、同じような祝福を受けています。このように愛され、祝福さ れている自分を喜び、尊厳性を感謝する事です。私達はもっと大い に自分に自信を持つ必要があります。この世界に二人といない特別 な個性の持ち主として、この世界で燦然と輝いて生きたいものです 。



2008年1月27日

主にあって家族の再生

牧師 犬塚 修

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着 けなさい。エフェソ6:11

一昨日「夜回り先生」の水谷修氏の講演会に出席する機会がありま した。氏は16年間の長きにわたり、夜の世界で苦しむ子ども達の更 生を天命としてとらえ戦ってきた人で、その命がけの行動力は激し く私たちを圧倒する鬼気迫る気迫に満ちていました。痛感したのは 、これまで接してきた10代の子ども達のいのちの危機でした。彼ら が親や大人への不満と怒りと反抗心から、夜の闇の世界にでかける と、そこで待っているものは恐ろしい魔の手であり、薬物中毒、風 俗、性産業への転落、エイズなど言葉に表現できないほどの無残な 現実が口を開けている事を実体験から生々しく語られ、愕然としま した。子ども達が悪の誘惑にかかり、神から与えられたすばらしい 人生を無残に散らしていたのです。また氏は私達大人もそのように なるまで知らずにいた無知が弾劾されました。1991年のバブル崩壊 から、国民の生活は二極化し、国の無策と無責任さに対する怒りと 絶望なども入れ混じってイライラ感をつのらせ、それが学校や社会 、家庭での“いじめ”“虐待”等になって出てきています。また日 本の家族が崩壊している事、特に家族同士の“対話”が外国に比べ ても、驚くほどに少ない点が指摘されました。急務は家族の再生で す。もし、私たちが神の愛に根ざした家庭を再生していくならば、 子ども達は自分が愛される事のすばらしさを経験し、夜の闇世界に 行く事もなくなると信じます。本気で愛し、心配してくれる人々が あれば、自暴自棄になる事はありません。「父親たち、子供を怒ら せてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」(エ フェソ6:1〜3)主にあって、「あなたは主の御手の中で輝かしい 冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる」(イザヤ62:3)「 彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれている。あなたは尋ね 求められる女、捨てられることのない都」(同12節)と記されてい ます。本気で聖書のみ言に立ち返り、伝道に励むべき事を示された 時でした。





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